蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

檀信徒チャンネル 檀信徒のしるべ

次世代に語り伝える家伝書 檀信徒のしるべ

■まえがき

 うたかたの栄華に酔ったこの国に、いつしか老々介護や孤独死や、ホームレスや物乞いや、「誰でもいいから殺したかった」青年やいじめ・いじめられる子供や、自死願望の若者や深夜の街をぶらつく家出少女や、家庭内暴力やわが子虐待といった、家族関係の縁のうすい「無縁社会」現象がはびこっています。

 お寺の目線から見れば、ご先祖の年回忌供養を忘れたりやらなかったり、ご先祖の眠るお墓を無縁墓にしたり、家内(家族)安全等を祈願する新年護摩の申込みをパスしたり、が目にとまるようになりました。これもまた「無縁」現象のあらわれ。だれでも、ご先祖あっての今、家族あっての私のはずですが、そういう想いも随分うすれたようです。

 モノが栄えて心が滅ぶ時代、開創七五〇年を機に改めて当山の檀信徒として知っておいていただきたいこと、時代が移っても変らずに心がけていただきたいこと、そして守り伝えたい日本の伝統習俗のことなど、なるべくわかりやすくまとめてみました。

 内容は日常生活に即した「檀信徒のしるべ」に過ぎませんが、せめてこの程度のことはおじいさん・おばあさんから息子さん・娘さん、そしてお嫁さんへ、さらにお孫さんへ、世代を継いで語り伝えていっていただきたいと願っております。「無縁社会」のなかで疎遠になりがちな家族のきずなを取り戻すためにも。

■日本の宗教

  • 日本の宗教は、神道(神社・神官)と仏教(寺院・僧侶)に代表されます。
  • 日本は昔から神と仏が対立することなく、神仏が和合してきた国です。
  • たいていの家には神棚と仏壇があり、同じ屋根の下で共存しています。
  • 神(神道)と仏(仏教)を敵対関係のようにみるのは、明治時代の神仏分離策(仏教弾圧策)以来の悪弊で、それは大きなまちがいです。
  • 神社やお寺は、今でいうパワースポット(超自然の霊気や霊威が集まる場所)です。
  • 何でも科学的合理的にモノゴトを考え判断する時代ですが、神や仏の霊威(パワー)をおそれず疎んじると、霊威の罰を受けることがあります。昔の人はそれをおそれ、神や仏の前では謙虚でした。神や仏を普段の生活でうかつにしてはなりません

■日本の仏教

  • 日本の仏教は最初(奈良時代以前)、朝鮮半島の百済(くだら)から僧侶・経典・仏像・仏師・寺院建築などの技術者とともに伝来しました。その後、同じく朝鮮半島の新羅(しらぎ)からも山岳信仰弥勒菩薩虚空蔵菩薩の信仰が伝えられました。聖徳太子蘇我氏がこれを積極的に受け容れ、朝廷のなかで国の安泰や天皇の無事を祈るために用いられ、朝廷貴族の間では住まいに仏像を祀りそれを日夜おがむことも奨められました(仏壇のはじまり)。
     また、日本最古の法興寺(ほうこうじ)や川原寺(かわらでら)・大官大寺(だいかんだいじ)・橘寺(たちばなでら)といった寺院が次々と建立され、それぞれ立派な伽藍を誇りました。
    仏教は、日本の国づくりの初期の段階で、国あるいは朝廷の安泰を守り人々に安寧をもたらす新しい文化として採り入れられ、寺院はその象徴としてまたは天皇や朝廷や氏族の権威をあらわすものとして建立されました。
  • 奈良時代には、朝廷支配の一環として諸国に国府(こくふ、地方行政機関)とともに国分寺・国分尼寺が置かれ、それを統括する総国分寺の東大寺が平城京にあって国を守る国家鎮護(こっかちんご)の仏様「盧舎那仏(るしゃなぶつ=奈良の大仏)」が祀られました。
     この時代には唐(中国)から当時勢いのあった仏教諸宗の教えが帰化僧(きかそう、日本に帰化した僧侶)や渡来僧(とらいそう、一時日本に来てまた帰る僧侶)によって伝えられ、華厳宗(けごんしゅう)・法相宗(ほっそうしゅう)・三論宗(さんろんしゅう)・律宗(りっしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・成実宗(じょうじつしゅう)に分れて、小乗仏教大乗仏教の経典や律(戒律)や論書の講義や研鑚が行われ、その道場として興福寺(こうふくじ)・薬師寺(やくしじ)・大安寺(だいあんじ)・元興寺(がんごうじ)・唐招提寺(とうしょうだいじ)などが次々と建立されました。
  • 平安時代は、最澄(さいちょう)・空海(くうかい)という二人の秀でた高僧が出て、ともに唐(中国)に留学し、中国ならびに東アジアの最新の仏教をもちかえり最澄は比叡山(滋賀県)に天台宗空海は高野山(和歌山県)に真言宗を開きました
     天台宗は、『法華経(ほけきょう)』を中心に、大乗仏教の教えを学ぶほか、戒律や座禅も厳格で、のちに密教も取り入れ、真言宗は、仏教のすべての教えを学ぶほか、『大日経(だいにちきょう)』・『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』などの密教経典やインド語で唱える真言陀羅尼(だらに)を学修することとしました。
     空海は、書や詩文を通じて時の嵯峨天皇(さがてんのう)の信頼を受け、側近として宮中にも出仕し、天皇の病気平癒や雨乞い・五穀豊穣(ごこくほうじょう)の祈祷や護国(ごこく)経典の講義を行うなど、鎮護国家(ちんごこっか)を祈りそれを具現する新しい現世利益の宗教(密教)を示してみせました。
     しかし平安時代の後期になって高野山が一時衰退し、弘法大師の教えの復興に努力をしていた覚鍐(かくばん、興教大師(こうぎょうだいし))が金剛峯寺側と対立し、支持者とともに高野山を下りて紀州・根来の里(和歌山県岩出市根来)に自らの拠点である大伝法院(だいでんぼういん)を移すことになりました。これ以後、根来に移ったグループを新義(しんぎ)派といい、高野山に残ったグループを古義(こぎ)派というようになりました。当山の所属する智山派(ちさんは)は新義派に属しますが、あくまでも真言宗全体としての総本山は高野山です。
  • 鎌倉時代は、比叡山から、法然(ほうねん)・親鸞(しんらん)・栄西(えいさい)・道元(どうげん)・日蓮(にちれん)などが次々と山を下り、天台宗の厳格で難しい総合仏教を捨て一仏一経主義に走りました。法然・親鸞は南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の念仏往生(ねんぶつおうじょう)を、栄西・道元は宋(中国)に流行していたを、日蓮は『法華経(ほけきょう)』を独自解釈して「法華経絶対主義」を主張し、それぞれに浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗を開きましたが、厳しい修行や難しい教義習得を捨てた易行門(いぎょうもん=安易な道)といわれます。
     一方高野山は、一時衰微しましたが、念仏や禅を受け入れ諸宗を包容する懐の広さを見せ、幕府執権の北条氏の助成(町石道)もあり次第に復興するようになりました。
  • 室町・戦国時代は乱世で、この世に救いはなく、鎌倉時代の仏教がかもしだした無常観(むじょうかん)につつまれて、あの世に救いを求める厭世的仏教となりました。将軍を頂点とする武家階層に禅宗とくに臨済宗が深くかかわり、戦場で命を落とした武将の菩提を弔う菩提寺(ぼだいじ)の役を担うようになりました。浄土宗はのちに、徳川家康をはじめとする三河徳川家の帰依するところとなりました。家康の旗印は「厭離穢土(おんりえど)」「欣求浄土(ごんぐじょうど)」でした。
     この時代を機に日本の仏教は、天皇・朝廷の側で国家安穏を祈る真言・天台の系統と、武家の菩提寺となって武将や家来の死を弔う浄土・禅宗の系統に分れていきますが、武家政権の時代が長く続き、時代の流れで真言・天台系もやがて人々の死を弔う葬式型の仏教へ変容してゆきます。
  • 江戸時代は、徳川幕府により仏教寺院は何宗であっても保護され、寺院の役割は天下泰平を祈る祈願所(きがんしょ)と、武家をはじめとする死者の弔いごとを行う菩提所(ぼだいしょ)の二つにはっきり分れるようになりました。
     中期には武家以外の人々にも戒名が与えられるようになり、寺では過去帳を用意し、戒名など死者の記録を残すことになりました。また、その過去帳に記録された人々とその家族を檀家(檀徒、檀中)と呼ぶようになりました。
     この時代、仏教寺院は国営であり、仏教僧はいわば国家公務員のような身分でした。幕府の保護を受けた仏教寺院は、大小を問わず、みなそれなりの格好の伽藍を擁し、土地・田畑・山林を広く与えられて食糧自給や寺院経済を保証され、おかげで住職は多くの弟子や小作人を養うことができました。また、貧しい人たちや訳ありの人たちをかくまう福祉施設(かけこみ寺)でもあり、寺子屋のように武士以外の子供たちの学校であったり、薬草をつくりケガ人や病人を治療する病院であったりもしました。
  • 明治時代になると様相が一変し、仏教はお寺も仏像も土地田畑も坊さんもみな弾圧の対象となりました。明治新政府は、西洋諸国からはるかに遅れた国の近代化のために富国強兵に着手するとともに、天皇絶対の強権国家を建設するなかで天皇を神格化し、神道を日本で唯一の宗教としました。政府は神仏分離令を発布し、廃仏毀釈によって仏教を徹底弾圧しました。それまで幕府の保護下にあった寺院と僧侶はにわかにその存在根拠をなくし、寺院は廃寺、僧侶は身分を奪われて兵役や軍需工場の労役に追いやられました。
     廃仏毀釈によって寺院と僧侶は約半分に減りました。さらに国家神道が大手をふるい、仏事や布教活動も思うにまかせず、檀信徒の信助も乏しく、多くが伽藍の維持さえも困難な状況になり、小規模のお寺は規模の大きな本寺の住職が兼務することにもなりました。
    公職・聖職の立場から一転して寺院の維持経営をしなければならなくなった住職は、伽藍の護持のためにやむなく私企業もどきの営利活動に活路を求め、祈願寺の住職はつとめて日夜護摩などの祈祷に勤しみ、護摩札や護符を背中に背負って行商まがいの頒布行脚をして信者を獲得し、正月・五月・九月の参拝を奨励しました。一方檀家寺の住職は境内や所有地に墓地を造成し、墓所の提供による檀家の確保・増加に努め、檀家の葬儀・法事の布施を寺院収入の中心にすえるようになりました。以後、大正の時代以降も日本の仏教の流れは変わらず、同じような苦難の道が続きます。
  • 昭和になっても苦難の道はますます厳しくなるばかりでした。とくに、戦前・戦中は神国ニッポン・皇国教育のあおりで日本人は総神道信者化し、仏教や寺院の出る幕はわずかに神国ニッポン・皇国教育のあと押しをする布教活動や、国体安穏・神国弥栄を祈るご祈祷や、死者(しばしば戦死者)の弔いを行うことでした。
     やがて太平洋戦争に負けて、また法難が襲うことになりました。占領軍の指令により寺院所有の農地が解放され、食糧自給の根拠をうばわれました。寺院は主な経済基盤を失うことになり、伽藍の維持と住職・家族の生活をまかなうため檀信徒の皆さんにお布施(祈願料・供養料・回向料など)や寄付寄進(土地・山林・建物・食糧・物品・仏具・浄財など)をお願いすることになったのはこの時からです。
     もう一つの法難は、新憲法が打ち出した信教の自由により、日本人が宗教的な精神を骨抜きにされたことです。この信教の自由とは、表向きはアメリカンデモクラシーの微笑みですが、内実は日本人の心を神仏から離して自由にすること。占領軍司令部は、日本軍人の精神的強固さの背景を天皇絶対の狂信的国家神道とみなし、日本を無宗教の国にする必要があったのです。
     この政策はものの見事に的中し、今や日本人は物質的な満足や享楽にはお金と時間を使いますが、宗教や信仰や伝統習俗といった精神世界にはおよそ無頓着で、不景気で金回りが悪くなるとたちまちに心の拠り所を失い、老いも若きも社会道徳が劣化し「それでも日本人?」と聞きたくなるような有様です。「モノが栄えてココロは滅ぶ」危機。これは、お寺の活動にとっても大変困ったことですが、この国はいったいどうなるのか、このままではいけないと心ある人は皆思っています。
  • 戦後、(はきちがえられた)民主主義や自由主義が世の中に広まるなか、死者の弔いごとやご祈祷や観光地で安閑としていた日本の仏教にまた法難が襲いました。社会的に比較的恵まれない人を勧誘し、しばしばカルト教団まがいの折伏によって入信させあるいは改宗させ、日蓮正宗の信者組織(法華講)に過ぎなかったものがあっという間にマンモス教団にふくれ上った創価学会の攻勢で、旧来の檀信徒が大勢宗旨替えをしました。しかし、創価学会も公明党を擁し政権与党にもなったせいか、今は随分と穏健になり、世代交代とともにまた檀家として当山に戻ってきた例がこの十年くらいの間目立ちます。
     創価学会と時期を同じくして信者を拡大させた新興宗教に天理教がありますが、これは天理市に本部を置く穏健な神道系の教団です。
     これより少しおくれて霊友会や霊友会から分れた立正佼成会仏所護念会も勢力を伸ばしました。いずれも『法華経』による先祖供養を奨めていますが、過激な活動を行わず、多くの信者は菩提寺と対立しないよう心がけているようです。
     このほか、天台宗系の孝道教団念法真教、真言宗系の解脱会真如苑、日蓮宗系の国柱会本門仏立宗日本山妙法寺大僧伽、神道系の黒住教金光教大本(教)、大本(教)から分れた生長の家世界救世教、世界救世教から分れた真光系諸教団、また独立系のパーフェクト・リバティー教団(PL教団)、霊波之光などがよく知られています。
     加えて、これら新興宗教または新宗教といわれる教団のあとに、新新宗教といわれるものが登場しました。幸福の科学世界基督教統一神霊教会(今は改称されて世界平和統一家庭連合)韓国発祥)、そしてオウム真理教。オウム真理教は現在「アレフ→今はAleph」と「ひかりの輪」に分裂していますが、いまだにその反社会性を疑われ公安当局の取締りや監視の下に置かれています。
     これら新しい宗教団体の特色は、既成仏教が「家の宗教」であり出家僧侶主導なのに対し一般在家を対象とした「個人の信仰」であり、その悩みを解決することを救済というのですが、しばしば独善的排他的で、専制教祖に巨額の金品が集まったり、教団ぐるみのサギ商法が発覚したり、教祖が逮捕されたり、修行の名を借りた信者の洗脳マインドコントロールが日常化していたり、ひいてはテロ事件を引き起こしたりと、反社会的な性格が見え隠れします。
     このほかにも、仏教系・キリスト教系で、排他的・独善的な布教活動や信者獲得で関係者間に問題を起している団体があります。
  • 以上、日本の仏教の流れを概略たどってみましたが、これからもまた前途多難です。
     日本は昔から、中国・朝鮮・ヨーロッパ・アメリカから先進文明を学び、それを和魂漢才、和魂洋才によって自分たちの様式に変えて発展してきました。いつもお手本を見て自らの技術や文化を生み出し、それをみがいてきました。
     バブル期にお金持ちになった日本は、世界のどこをさがしてももういいお手本が見つからなくなりました。アメリカも、すでにあこがれやお手本の対象ではありません。ところがお金とお手本がなくなった途端自分から壊れはじまったのが今の日本です。
     こういう時には「温故知新(おんこちしん)」(故(古)きを温(たず)ねて、新しきを知る)、自分の国の古きよき精神や伝統や様式や方法に学ぶほかはありません。
     幸福とは他人に恵んでもらうものではなく、自分で願い自分で努力して達成するもの。その前提に、生れた国や、国の歴史や文化や、家の継続や先祖があってはじめて今の自分がある、ということを忘れてはならないでしょう。大震災のあと、ガレキのなかから真っ先に先祖の位牌をさがしていた東北の被災者こそ、偽りのない日本人です。

■満福寺の歴史(略史)

満福寺の歴史を参照してください。

■当山の宗派

  • 宗派は、真言宗・智山派(しんごんしゅう・ちさんは)といいます。
  • 総本山は、智積院(ちしゃくいん、京都市東山区)。長谷川等伯(はせがわとうはく)の襖絵など桃山時代の絵画や庭園で有名です。その第一世は、この栃木市(皆川町の持明院)から出た学僧で玄宥僧正(げんゆうそうじょう)という方です。
  • 総本山のほかに、大本山では、成田山新勝寺(成田市)・川崎大師平間寺(川崎市)・高尾山薬王院(八王子市)があり、別格本山には、高幡山金剛寺(高幡不動、日野市)・大須観音宝生院(名古屋市)があります。
  • 真言宗の宗祖は、弘法大師(こうぼうだいし)空海(くうかい)上人です。
    大師といえば、日本では弘法大師が最も有名で、とくに関西から西の地方では大師といえば誰でも弘法大師のことを指していいます。
  • 真言宗のご本尊は、大日如来(だいにちにょらい)です。
  • 阿弥陀如来・薬師如来・観世音菩薩・地蔵菩薩・不動明王などの仏さまや、歓喜天・毘沙門天・帝釈天・稲荷神・八幡神・蔵王権現・三宝荒神などの護法神(ごほうしん)は、みな大日如来の分身です。

■真言宗の教え・信仰

  • 真言宗の教えは『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂経(こんごうちょうぎょう)』 という二つの「大経」にもとづき、誰でも、サトリを求める心を起し(発心)、手に「印(いん)」(仏のサイン、合掌など)を結び、心にその仏の姿を観じ、口にその仏の真言を唱える修行によって、この身のままで成仏できる(仏と私とが一体になる)、というものです。真言宗のお坊さんがよく真言(仏に呼びかけるインド語のお経)を唱えるのはそこからきています。
  • この真言のほか、日常、『理趣経(りしゅきょう)』や『般若心経』などを唱えます。
  • 真言宗の信仰でだいじなのは、弘法大師を崇敬する大師信仰(だいししんこう)です。
    願いごとがある時、心配ごとがある時、つらい時、悲しい時、うれしい時、感謝の時、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)と、お大師さまのご宝号(ほうごう)を何べんでも繰り返しお唱えします。その代表が四国八十八ヵ所霊場です。
  • 真言宗では、この仏以外信仰してはダメだとか、このお経以外おがんではダメだとか、心の狭いことは言いません。多種多様の仏さまへの帰依・信仰は全く自由です
     どんな仏さまを信仰しても、どんなお経をおがんでも、他の宗教に心をひかれても、まったくの自由です。弘法大師が真言宗の要諦をまとめた『秘密曼荼羅十住心論』でいわれたように、真言宗は仏教諸宗の上に立つ教えをもっていますから、寛容です。
     阿弥陀様を信ずる人、お薬師様を信ずる人、観音様をおがむ人、お不動様の信者の人、お稲荷さんに願をかける人、法華経をおがむ人、阿弥陀経を唱える人、修証義を読む人、真言宗の信仰は入口・方法が多種多様ですが、究極は大日如来の広い慈悲と知恵の世界への道で、富士山の登山とよく似ています。
     「富士(ふじ)」は「不二(ふに)」富士山の頂き(大日如来の世界)に登れば、別々の道(信仰)を昇ってきた人が皆、富士山との一体(不二)感を共有できるのです。

■宗祖・弘法大師空海(くうかい)上人

  • 宝亀五年(774)、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(さぬきのくに、たどぐんびょうぶがうら=香川県善通寺市善通寺)に生れる。幼名を真魚(まお)といい、幼い頃から言葉の発達が早く、周囲に貴物(とふともの)とよばれ神童ぶりを発揮した。
  • 延暦七年(788)、十五歳の時、長岡京に都が移ったあとの旧都平城京に上京
  • 延暦十年(791)、十八歳で朝廷のエリート官僚を養成する大学(寮)明経科に合格。中国の漢籍や史書をはじめ最高学府の学問を学ぶ。
  • この間、渡来した外国僧が多数出入りして国際仏教センターになっていた大安寺(だいあんじ)勤操(ごんぞう)師と出会い、山岳修行と仏教の教えを受ける
  • やがて大学での学問にあきたらず、エリート官僚への道を捨て、奈良に近い金剛・葛城(こんごう・かつらぎ)山系の山に入り、修験の行者となる
  • 吉野山から大峯(おおみね)山へ、大峯山から熊野(くまの)へ、そして高野山へ。四国に渡って大龍ヶ岳(だいりゅうがたけ)へ、室戸岬の洞窟へ、四国修験のメッカ石鎚(いしづち)山へ、足を運び、室戸の洞窟での修行中「明けの明星」(金星=虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ))が真言を唱える口に飛び込む超常体験をする。
  • 一方、山岳修行から平城京に戻ると、大安寺や元興寺(がんごうじ)で大乗仏教の三論宗(さんろんしゅう)を、また興福寺(こうふくじ)や薬師寺で法相宗(ほっそうしゅう)を、さらには国家仏教の中心の東大寺で華厳宗(けごんしゅう)を、西大寺(さいだいじ)では密教仏や密教経典を、唐招提寺(とうしょうだいじ)で戒律(あの鑑真和上が伝えた四分律(しぶんりつ))を学んだ。
  • 二十四歳の時、三教指帰(さんごうしいき)』を著わし、当時アジアの主要な思想・宗教であった儒教道教(どうきょう=中国の民間信仰)・仏教を比較し、仏教が一番すぐれていることを強調して仏道入門宣言の書とした。
  • 以後、消息不明の時期が七年つづく。よく「空白の七年」といわれるが、おそらく後の消息から推論すると、サンスクリット語(インドの古典語、仏典はみなこれで書かれている)の習得と山岳修行と密教の勉強をしていたと考えられる。
  • 三十一歳の延暦二十三年(804)四月、東大寺で国家認定の僧侶(官僧)になるために具足戒(ぐそくかい=正式な出家として守るべき二五〇の戒律)を受け、翌五月十二日、国家派遣の私費留学生として第十六次遣唐使船団の第一船に乗り唐の都長安に向う。
  • 大師の乗った船は途中東シナ海で暴風雨に遭い難破するも、三十四日間の漂流の末に台湾海峡西方の湾内奥(福建省霞浦県福寧湾の内湾)の赤岸鎮(せきがんちん)に漂着した。
  • 外国人が上陸したことのない岸辺で一行は村人に疑われ、また海を漂流して外国人の上陸許可を扱う福州の役所に向った。しかし、そこでも疑われ、密入国の嫌疑で一行は船内に閉じ込められてしまった。
     この窮地を救ったのが大師だった。大師は、遣唐大使に代り、得意の漢文と毛筆書で役所の長官にあてて上陸許可申請の名文を書いた。それを読んだ長官はたちまちおどろき、ただちに一行を解放して宿舎や食事を用意し、賓客の扱いに変った。
  • 約一ヶ月後に長安から迎えが来て、大師を含む遣唐使の一行は長安に向う。
     その年も暮れる頃ようやく長安に着き宿舎に入る。すぐ新しい年に替り遣唐大使らは唐の宮廷に上り朝賀(ちょうが=天皇の名代として唐の皇帝に行う新年の挨拶)を終え、まもなく帰国の途に着いた。大師ほか留学生は長安に二十年とどまるのである。
  • 大師の寄宿先は、西明寺(さいみょうじ)という長安でも一・二の大寺院であった。日本からの留学生はみなここに滞在した。世界中から長期留学生が集っていた。
  • さっそく長安の街に出てみると、赤毛・青目の異国人が民族服を着て歩いていた。さすがに世界の都長安である。道も広ければ、城郭も高く、宮殿は見たこともない大きさだった。
  • 大師は宿舎で仲良くなった僧のすすめで、まず醴泉寺(れいせんじ)という寺にいるインド僧の般若三蔵(はんにゃさんぞう)をたずねた。般若三蔵は快く大師を迎え入れ、早速そのもとで華厳や密教や生のサンスクリット語を教わることになった。大師の唐語(中国語)は長安でよく通じた。
  • 大師はまた、おそらく般若三蔵の紹介であったろう、恵果(けいか)和尚をたずねた。青龍寺は長安随一の密教寺院で、恵果和尚はその第一人者であった。和尚は大師を見るや、あなたが来ているのを知っていた、いつ来るかずっと待っていた、早速私の法のすべてを教えようと言い出し、日を置かず1000人からの弟子をさしおいて、当代一流の密教の奥義を短期間のうちに全て大師に伝え、早く本国に帰ってこの法を伝えなさいと諭した。
     恵果和尚は、大師に法を伝えてまもない年の暮帰らぬ人となった。まさに奇跡的な伝法であった。
  • 折りしも、日本から朝貢の使節が長安に来ていた。二十年の長安滞在が留学生の掟であったが、大師はそれを破り朝貢の使節団とともに帰国する決心をした。
  • かずかずの仏典・論書・文献・資料・法具・仏画・詩文・書集などを携え、大同元年(806)九州の大宰府へ帰着した。しかし、国禁を破っての帰国のため朝廷から帰京の許可が出るまでしばらく大宰府観世音寺にとどめおかれることになった。
  • 大師は持ち帰った文物の目録(「御請来目録」(ごしょうらいもくろく))を京の都に帰る使節団の大使に託し朝廷にさし出した。自分の帰国が国禁を破ってもやむをえないほど、国家にとって益あるものだということを訴えたのである。
  • 約二年ののち、許されて大師は京の高雄山寺(たかおさんじ=今の神護寺)に迎えられる。京では、同じ遣唐使船で唐に渡り、天台山で数ヶ月天台宗を学んで帰っていた比叡山の最澄(さいちょう)が高雄山寺の住持を兼ねていたが、快く住持の座を明け渡した。大師が恵果和尚の抜擢を受け、密教の正式な後継者となって帰ってきたことを知り、おどろくとともに最新の密教を自分も身につけたいとも思った。早速最澄はへりくだった態度で密教の経典を借りたいと申し出る
  • やがて高雄山寺に嵯峨天皇の使いがやってきて、屏風に書筆をしたためて欲しいとたのまれる。大師は早速筆をとり、唐で流行していた書法で見事な書をしたためた。これ以来嵯峨天皇は大師と親交をつづけ、自分の私的ブレーンにまでした。大師は宮中にしばしば招かれ、天皇が病の床に伏すと病気平癒の祈祷を行ったり、宮中で国家鎮護の修法を行ったり、護国(ごこく)経典を朝廷貴族に講義した。
  • そうこうするうちに、嵯峨天皇は大師を国家仏教の中心である東大寺の別当(長官)に任じ、その密教化を命じた。
  • 次いで嵯峨天皇は、京の迎賓館でもあった東寺も国家鎮護(こっかちんご)の正式な寺にするよう大師に命じた。
  • しばらくして大師は、嵯峨天皇に高野山に日本で初の本格的な密教寺院を建てたい旨願い出て、高野山の下賜が許される。この時期大師は五十歳代になるが、高野山の造営、東大寺の別当、東寺の密教化、宮中での役職などで多忙をきわめた。
  • さらに大師は、故郷讃岐の灌漑用ダムの満濃池(まんのういけ)の修築、大和益田池(ますだいけ)の築造、摂津大輪田泊(おおわだのとまり=後の神戸)の港湾修理といった、かつての行基(ぎょうき)菩薩に似た水利土木事業の監理指導を行った。この大師の偉業の裏には、朝鮮半島南部から来た秦氏(はたし)一族の技術集団がいることを無視できない。
  • また大師は、この時期多忙のなかかずかずの著作を書き残している。大師の代表作を挙げると先ほどの『三教指帰』のほか『弁顕密二教論』『即身成仏義』『吽字義』『声字実相義』『十住心論』『秘蔵宝鑰』『般若心経秘鍵』などがある。名文家でもあった。
  • 大師の偉業はまだつづき、京の東寺の近くに貴族の土地を譲り受け、庶民の子弟のための日本初の私立学校「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を開設した。授業料なし、完全給食制、仏教と仏教以外の諸学問をあわせて学ぶ学校だった。ここで、新時代の仏教である密教の後継者を貴族の子弟以外から育てようとした。
  • 天長八年(831)五月、悪瘡(あくそう=皮膚の炎症)を病む。
  • 天長九年(832)八月、ようやく密教道場のかっこうとなった高野山で、世界と国家の平和を祈り、光と華による祈願ページェント万灯万華会(まんどうまんげえ)を行った。
  • 天長九年(832)十一月、死期を悟ったか、穀物などを口にせず、修法に専念する。
  • 承和二年(835)正月、宮中の真言院において、前年にはじめた「金光明最勝会」(こんこうみょうさいしょうえ)に代り、天皇の御衣(ぎょい)をお加持するはじめての「後七日御修法」(ごしちにちのみしほ)を行った。
  • 同年三月十五日、弟子たちをあつめて遺戒を言い残し同二十一日、修法中のお姿のまま、その生涯を終えた
     嵯峨上皇から挽歌が贈られ、長安の青龍寺では、一山粛然としてみな素服を着けて弔意を示したという。

■当山のご本尊(新本堂の主尊)

 当山のご本尊は、大日如来(だいにちにょらい、金剛界)です。

■厄除開運大師(旧本堂=新大師堂の主尊)

 旧本堂を大師堂とし、当山に伝わる厄除開運弘法大師を主尊としてこのたびお祀りしました。このお大師さまはとくに厄除(やくよけ)開運(かいうん)のご利益があり、蔵の街観光や一般参詣の皆さん、護摩祈願希望の方に常時の参拝を可能にしました。よくないことや悪いめぐりあわせが続く方、いやな人間関係を断ち切りたい方、永年業病に悩む方、厄年あるいは前厄・後厄の方、すべからく悪運を断ち良運を求める方、是非お参りください。

 なお大師堂には、有名な三鬼尊のほか、昔から伝わる秘仏「歓喜天(かんぎてん)」(=お聖天(おしょうでん)様)がお祀りされています。この仏様は大変法力が強く、純粋な気持ちで熱心にお参りを続ける方には商売繁昌や縁結び・夫婦円満・子宝授与などに大変ご利益のある仏様です。

■五十体「願かけ大師」

五十体「願かけ大師」を参照してください。

■三鬼尊(市指定文化財)

悪運断ち 三鬼尊を参照してください。

■子育観音

 観音堂のなかに乳飲み子を抱いている子育観音さまが祀られています。昭和の初期、お子さんに恵まれなかった大檀家のご当主がこの観音さまを寄進されたのを機会に、檀信徒の皆さんから浄財を仰ぎお堂を建立して観音堂としたものです。

■身代り地蔵尊

 お地蔵さまは、人々の苦しみを代って受けてくださる「代受苦」(だいじゅく))徳をお持ちの仏さまです。戦後三十年を機に、戦争で亡くなられた英霊・戦災の犠牲者や、天災・人災・事件・事故等で亡くなられた殉難者や、水子あるいは推定死亡者などの供養のために、昭和五十年に身代り地蔵尊を建立しました。

■十三仏

 亡くなられた人の御霊が迷わずにあの世に行けるように道案内をするのが十三仏で、葬儀や仏事の時に十三個の小さなおだんごを作るのはこの十三仏にお供えするためです。

 不動(ふどう)・釈迦(しゃか)・文殊(もんじゅ)・普賢(ふげん)・地蔵(じぞう)・弥勒(みろく)・薬師(やくし)・観音(かんのん)・勢至(せいし)・阿弥陀(あみだ)・阿閦(あしゅく)・大日(だいにち)・虚空蔵(こくうぞう)の十三仏が、新本堂の前参道わきに並んでいます。初七日~四十九日の七本塔婆を忌日ごとにお供えください。

 お不動様は初七日、お釈迦様は二七日、文殊様は三七日、普賢様は四七日、お地蔵様は五七日(=三十五日忌)、弥勒様は六七日、お薬師様は七七日(=四十九日忌)、観音様は百ヶ日忌、勢至様は一周忌、阿弥陀様は三回忌、阿閦様は七回忌、大日様は十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十七回忌・四十三回忌・五十回忌、虚空蔵様は三十三回忌の仏様(これらには異説もある)です。

■六地蔵

 新本堂の前に、十三仏と左右対称に「六地蔵(ろくじぞう)」をお祀りしました。当山にお参りの際は、かならずこの六地蔵に合掌一礼してください。「六地蔵」はお寺の境内のほか、農村集落の入口や辻道のわきなどにもよく見られます。

 お地蔵様は「六道(ろくどう)の大導師」といわれ、「六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)」すなわち迷界のなかをさまよう私たちを救ってくれる仏ですが、(諸説ありますが)

  • 金剛願(こんごうがん)地蔵」は生前の罪業深く地獄におちた人を救い、
  • 金剛宝(こんごうほう)地蔵」は他人のものまで欲しがる強欲で餓鬼道(がきどう)におちた人を救い、
  • 金剛悲(こんごうひ)地蔵」は食物や性欲にばかり執着をして畜生道(ちくしょうどう)に転落した人を救い、
  • 金剛幢(こんごうとう)地蔵」は周囲の人と諍いばかり起し修羅(しゅら)の世界におちた人を救い、
  • 放光王(ほうこうおう)地蔵」は私たち人間のあらゆる苦しみや悩みを受けとめ、
  • 預天賀(よてんが)地蔵」は生前善行を行い天界に上った人を仏の世界へ導きます。

 葬儀や仏事の時の六個のおだんごはこの六地蔵にお供えするためです。

 仏教の教えの根本には、私たち人間は他の生き物と同じく、煩悩に支配され「六道」(迷界=輪廻の世界)をさまよっているという前提があります。

■檀信徒とは

 檀信徒とは、当山を菩提寺(または信仰寺)とし、宗義(真言宗の教え)に従い葬儀・法事・祈願などの法儀を行い、あるいは日頃から参拝を行い布施や寄付・寄進やその他の志納金を通じて当山の護持に財的な信施を惜しまない人をいいます。

 当山の檀信徒には、境内にお墓をもつ方、共同墓地や霊園などにお墓をもつ方、施主代理をしてくださっている方、当山に信心を寄せてくださっている方などがあります。

■当山墓地使用の定め(満福寺境内墓地使用規定)

(墓地の管理者)
第一条
① この墓地は、宗教法人満福寺代表役員である当山住職がこれを管理する。
(墓地使用者の資格)
第二条
① この墓地の使用は、管理者である当山住職が檀徒と認めた者にかぎりこれを認める。
② 檀徒とは、当山を菩提寺とし、当山の宗旨である真言宗の宗義に従って葬儀・法事・祈願等の法儀を行い、真言宗の信仰にめざめ、布施や寄付・寄進を通じて当山の護持に財的な信施を行う者をいう。
(墓地使用の許可)
第三条
① 檀徒でこの墓地の使用を希望する者は、管理者である当山住職の許可を得なければならない。
② 許可を得た者は、すみやかに墓地使用冥加料を当山に納入しなければならない。
③ 墓地使用冥加料を納入した者に、永代使用権が認められる。
④ 永代使用権は、墓地の借用権であり土地所有権ではない。
(墓地使用許可の取消し)
第四条
① 使用者に五年以上の墓地管理費の無断滞納もしくは墓所の不使用実態があったときは、永代使用権を自ら放棄したものとみなし、墓地の使用許可を取消し墓所の原状回復による返還を求める。
② それに応答のないときは、管理者において解体整地する。使用者が不明のときも同様とする。
③ 使用者が他の宗旨や信仰に帰属し当山の宗義や法儀に従わないときは、当山檀徒としての身分を自ら放棄したものとみなし、檀徒の認定を取消し同時に墓地の使用許可を無効とする。
④ 墓地の使用許可が無効となった者は、永代使用権を失い墓所を原状に復し返還しなければならない。
⑤ この場合、墓地使用冥加料の返還はない。
(墓地使用継承の許可)
第五条
① 使用人の意志で墓地使用を終了するときは、永代使用権を失う。
② 使用人が死亡もしくは所在不明になったときは、相続人にかぎり墓地使用を認める。
③ もし相続人がいないときは、使用人の親族もしくは縁者のうち管理者が認めた者に墓地使用の継承を認める。
④ 第九条の一項に定める無縁墓に認定された場合、使用者は永代使用権を失う。
(墓地使用権の譲渡等の禁止)
第六条
① 永代使用権は、これを第三者に譲渡または転貸してはならない。
(墓地管理料)
第七条
① この墓地を使用する者は、墓地管理料を年に一度当山に納入しなければならない。
② 墓地管理料は、三・三㎡(一坪)当り年額四五〇〇円とする。ただし、経済状況の変化等にともない改定されることがある。
(使用上の条件)
第八条
① 墓地の使用目的は、使用者の祖先の遺骨の埋葬・保管に限る。事情によりそれ以外の遺骨を埋葬するときは管理者の許可を得なければならない。
② 墓地使用にあたっては、他の墓所・付帯設備・樹木等を損壊したり汚したりしないよう留意しなければならない。
③ 遺骨の埋葬にあたっては、市町村長が交付する埋葬許可証を管理者に提出しなければならない。
④ 改葬にあたっては、予め管理者の同意及び栃木市長の許可を得て、管理者の助言に従って行われなければならない。
⑤ 改装にあたっては、予め管理者に届け出し、工事に当たっては使用区画を超えないよう、また隣接墓所に損壊を与えないよう留意しなければならない。
⑥ 埋葬等の墓前儀礼は、当山の宗旨である真言宗の法儀に従わなければならない。
(無縁墓の認定と撤去)
第九条
① 墓地使用者が消息不明・音信不通となり、墓地管理料が五年以上未納となり、当該墓地内に設置した告知板での無縁予告が二年経過したにもかかわらず、墓地使用者も関係者も現れず、使用継続の意志確認が不可能になった場合、無縁墓とする。
② ①に規定する無縁墓は、管理者の責任において撤去し、遺骨を当山の「古い遺骨収納墓」に移す。
(不可抗力による事故の管理責任の免責)
第十条
① 自然災害もしくは犯罪等の不慮の事由で墓所に損害を受けても、当山の管理責任はないものとする。
 
付則
① この規定は、昭和三十年一月一日より施行する。
② この規定は、第七条②の墓地管理料(年額)を改定し、平成十年四月一日より改定施行する。
③ この規定は、第九条を加え、他の条項に加筆削除等の修正を行い、平成十五年四月一日より改定施行する。

■当山の葬儀

  • 葬儀とは、亡くなられた人に、家族として最高の礼をもって行う告別と感謝の式
  • 故人にとっては、家族や親しい人と別れあの世へ旅立つ式、この世の卒業式
  • 宗教的には、亡くなられた人の御霊を仏の世界に導く成仏の厳儀
  • 導師(住職)の引導は人生の卒業証書授与、法名は卒業の証し
  • お布施は、旅立ってゆく故人に、遺族が心をこめて贈るはなむけの感謝料
  • 葬儀には、家族の絆、人の生き様、生命の尊厳、死者への畏敬などが凝縮されます。
  • 以下は、葬儀の際のご参考に。
  • 万一、ご不幸ができましたら、早めにお寺の方にご連絡ください。
    とくに、東京をはじめ栃木県内外で遠方に在住の方、葬儀社と具体的な話を決める前にかならずご連絡ください。時々、不心得な葬儀社がいて勝手に事を進めます。
  • ご葬儀の打合せは、お疲れでしょうができるだけご家族の方がおいでください。
    ご親族や班内の方で間に合う場合は、それでもけっこうです。
    遠方の場合は、電話あるいはFAXまたは電子メールでお受けしております。
    故人のお名前、年令、喪主のお名前、続柄、連絡先、通夜の日時、葬儀・告別式の日時、戒名、お布施、葬儀社名・式場の場所、弔辞・弔電拝受の有無、当日納骨の有無、初七日や前倒しの三十五日忌の有無、僧侶の人数、故人の人柄や社会的地位、そしてご家族の想いなどについて確認させていただきます。
  • 法名(通称、戒名)は、死者の御霊を仏の世界に導くために、導師(住職)がまず死後受戒をさずけ、その証しとして授けられます。
    法名には院号のほか何段階かがあり、当山の法名はおおむね次の通りです。


    <成人の場合>

    ○○院殿○○○○大居士(清大姉)
    ○○院○○○○○○清居士(清大姉)
    ○○院○○○○○○居士(大姉)
    ○○院○○○○清居士(清大姉)
    ○○院○○○○居士(大姉)
    ○○○○清居士(清大姉)
    ○○○○居士(大姉)
    ○○○○清信士(清信女)
    ○○○○信士(信女)

    <子供さん・赤ちゃんの場合>

    ○○院○○○○童子(童女)
    ○○○○童子(童女)
    ○○孩子(孩女) ちなみに、著名人の法名の一例を挙げると、

    織田信長は、惣見院殿贈大相国一品泰厳尊儀。
    豊臣秀吉は、国泰祐松院殿霊山俊龍大居士。
    徳川家康は、(東照大権現)安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士。
    吉田茂(元総理)は、叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。
    田中角栄(元総理)は、政覚院殿越山徳栄大居士。
    夏目漱石は、文献院古道漱石居士。
    川端康成は、文鏡院殿孤山康成大居士。
    美空ひばりは、茲唱院美空日和清大姉。
    石原裕次郎は、陽光院天真寛裕大居士。
    坂本 九は、天真院九心玄聲居士。

     法名の内容は、故人の社会的地位や人柄や家族のなかでの存在感や特技・趣味など、またご家族の想いなどを勘案して考えます。法名に使われる文字は仏典や漢籍のなかから選ぶのですが、住職に仏典や漢籍の充分な素養があるかどうか、住職の教養のレベルが試されます。
  • 葬儀のお布施は、故人への報恩感謝の一端として施主(家族)が菩提寺に喜捨する浄財で、故人への感謝料としてご理解ください。
    よくお経料とか住職への謝礼とか住職個人への支払いと誤解されがちですが、そもそもお布施とは企業などが仕事の代価として請求する代金(=対価料金)ではありません。当山の場合、法名の別や施主のお考えやご事情によって額はいろいろで、通夜から納骨までの全てを含んでご相談させていただいています。
     2009年、大手スーパーのイオンが葬儀業界に参入し、お布施を対価料金として公表し物議をかもしましたが、結局撤回しました。
  • なお、葬儀の際のお布施を住職にあずける時期はいつか、とよく聞かれます。昔は施主の代りのお使いの人が葬儀前にお寺に届けたものですが、今は通夜回向の前、葬儀の前、葬儀のあと、翌日などさまざまで、施主の方の都合に合わせています。
  • 通夜(式)は、葬儀の前日の晩、家族・親戚・近しい人たちが集まり、住職に通夜回向をしてもらい、故人を偲んで思い出を夜通し語り合うものですが、今は様変りし、葬祭ホールに立派な祭壇をかざり、限られた時間内で行うのがほとんどとなりました。
     集まられた方に夕食代りに「清め」といわれる通夜振舞いをするのですが、これが今は大変なごちそうで、本来なら肉・魚や油もの・生ものをのぞいた煮物・和え物・うどんなどのおしのぎ(お精進)でいいはずです。
     また、通夜式に参列する方の服装がこの頃はほとんど礼服ですが、知らせを聞いて急いで駆けつけるという意味もあって、地味な色の平服でもいいはずです。喪主のご家族は、女性の方は薄化粧にノーアクセサリーでよく、若い男女の当世風髪型で金髪やザンバラ髪は遺族の立場と場所柄からして控えるべきでしょう。
     この頃は、通夜回向のあとに導師(住職)の法話がよくあります。ただし法話をする住職しない住職、法話をする住職でも法話がある場合とない場合などさまざまです。栃木市内でお通夜に法話をするようになったのは当山住職ともう一人高校で同窓の心あるご住職でした。法話が行われるようになってきたのはよい傾向です。ただし、通夜の法話は簡単にできるものではありません。故人のことをよく知り、その人柄や徳を偲び、同時にご遺族を慰め励ますものであるべきで、宗義の宣伝や、仏教要語の解説や、宗祖の言葉の受売りや、上から目線の説教は下の下で、しかも長いのはよくありません。ご遺族ご親族の悲しみや疲労の度合に配慮すべきです。
  • 葬儀・告別式は、故人にとってこの世の最後の日です。ご遺族の皆さんは気を引きしめ身をととのえて、亡くなられた人のために一日を尽くさなければなりません。
     葬儀・告別式の内容は、まず最初に導師が亡くなられた人の遺体をお加持し(清め)、死後受戒を行い、ご本尊大日如来の印可(いんか)をさずけて御霊を仏の世界へと引導し、それに添えて一番大切なお経を唱えます。これが葬儀の部分で、このあと弔辞の拝受・弔電の奉読や焼香と続く告別(式)の部分になり、最後にお棺の中にお花を入れ、ふたをして、喪主が最後の挨拶をするお別れとなります。
  • 火葬は、葬儀式場から火葬場に向い、ご遺体を荼毘(だび)に付します。
     昔は、自宅で葬儀・告別式を行い、ご遺体とともに行列(葬列)をつくってお墓にゆき、ご遺体をそのままお墓の土のなかに埋める土葬をしましたが、今では見られなくなりました。
     火葬の最後に、会葬者が順々に木と竹の骨上ばしを持ち、二人一組で一片のお骨を拾い骨がめに収めます。
  • 納骨は、火葬場から墓所に直行しその日のうちに行う場合と、後日四十九日忌などに合わせて行う場合があります。
     納骨の際、市役所から発行されている埋葬許可書を、当山境内墓地の場合はお寺に、共同墓地の場合は管理責任者にかならず渡してください。
  • 初七日忌は、首都圏の場合よく葬儀の当日に初七日忌の回向を行いますが、地方では行われません。というのも、東京などでは火葬場の都合で待たされ、葬儀の日がもう初七日前後ということがあってのことです。
  • 繰上げの三十五日忌は、いつの頃からか栃木市周辺で葬儀当日に行う慣わしとなりました。お墓への納骨終了後、会葬者が墓地から一度外に出て、住職に墓前回向をしてもらい、もう一度お墓参りをするというものです。
     栃木市周辺ではこれが定着していますので、お寺も以前に行われていた忌中回向に準じてご回向をしていますが、本来三十五日忌はその日に行うべきものです。
  • ご自宅には葬儀社の手で簡易な祭壇が設けられ、白木のお位牌・遺影・白木のお膳・お供物・お花・お灯明・香炉・お線香、そして後日の納骨の場合はご遺骨が置かれます。四十九日忌が終るまで、毎日この祭壇にお参りします。

■当山の法事

 当山では、毎年年のはじめに、その年に年回忌に当られる方の芳名を回忌ごと・月別の一覧にして檀信徒の皆さんにお届けし、ご法事のお申し込みを早めにしていただくようお願いしておりますが、この頃の世相を受けてか、ご先祖の年回忌に、ご法事も行わず、お塔婆もあげない方がしばしばあります。ご先祖あっての今、親があっての私、ご先祖への報恩感謝を忘れたらかならずその報いがあるものです。ご先祖はあの世で見ていて、そのさもしい心を時にはとがめます。

 新本堂の完成で、ご先祖さまの供養道場が立派になりました。どうぞ、新しい本堂でご先祖のご法事を営むことをお勧めします。

  • 四十九日忌は、亡くなられた人の御霊が「家屋の棟を離れる」日、懐かしいわが家をいよいよ離れる日に行う、葬儀後一番だいじなご法事です。ご遺族の皆さんにとりましては、四十九日間の喪が明ける忌明け・喪中明けの仏事です。
     その意味で、なるべくは親戚や親しい人には集まってもらい、この大事な法要を行うことは亡き人への一番の孝養です。
     この四十九日忌には、黒塗りあるいは黒檀などの本位牌(ほんいはい)を用意します。ご法事の際、白木のお位牌とともにお寺にお持ちください。位牌の開眼を四十九日忌のおつとめに合わせて行います。帰宅後、お家のお仏壇におかざりください。白木のお位牌は当山でおあずかりします。
     また四十九日忌を機に、石材店に頼んでお墓の墓誌や墓石に故人の法名などの刻み込みを行います。
  • 百ヶ日忌は、亡くなられて三ヶ月、百日目のご命日のご法事です。この頃は簡略化され、親戚や親しい人を招いて行うことは稀になりましたが、そろそろ亡き人への想いや感謝の念がうすれはじまる頃。故人が残したものを整理しながら、在りし日をしのぶのも百ヶ日です。
  • 一周忌は、満一周年のご法事です。今は亡き人の霊前に、この一年のつらかったこと・悲しかったこと・うれしかったこと・楽しかったこと、元気でいることを報告します。ご法事には親戚の皆さんをはじめできるだけ多くの方をお招きしたいもの。こういう時のお招きは親戚の縁を深めますし、招かれないとつい疎遠になります。
  • 三回忌は、満二周年、亡くなられた日を一回目に数えて三回目のご命日のご法事です。一周忌に続けてで大変ですが、一周忌と同じように行いたいものです。出費も大きいですが、有形無形の恩恵もご先祖がちゃんと用意しています。目先の経済観念で亡くなられた人の年回忌を考えるのは禁物です。
  • 七回忌は、満六年、七回目のご命日供養です。できれば一周忌や三回忌に準じて行いたいものです。七回忌までは、亡くなられた方のお気持ちを考えて、ご縁のある人に集っていただき、さびしくないご法事を心がけていただくことが望ましいと思います。
    ご法事は、親戚同士、親しい人同士、普段なかなか会う機会の小ない人が互いの縁を確かめ合うよい機会です。うっかりすると親戚も疎遠になり、親しい人ともだんだん離れ、お互い「無縁社会」の一員になってしまう時代、ご法事は次の世代に人の縁や伝統を伝える「伝承」の場でもあります。
  • 十三回忌以降~は、ご家族や限られた人が集まるだけでいいかもしれません。
  • ただし三十三回忌は、少人数でも親戚・縁者を集めかならず行うようお願いします。そのご先祖への追善供養の一区切りですので。

年回忌ご法事には、かならず年回供養のお塔婆をお墓に供えます。兄弟(姉妹)一同・子供一同・孫一同とか、個人名で追加塔婆をあげることをお勧めします。

■当山の護摩(ごま)祈願

 新本堂の完成にともない、旧本堂を真言宗の伽藍法式に則って宗祖弘法大師をお祀りする大師堂とし、主尊となる弘法大師を蔵の街開運厄除大師(かいうんやくよけだいし)と名づけました。大師堂には、これまで通り三鬼尊(さんきそん)をお祀りし、秘仏の歓喜天(かんぎてん=お聖天(しょうでん)さま)などもお祀りされています。

 真言宗のお寺は、心願成就の護摩祈願で人々の悩みや苦しみに向き合い、葬儀や先祖供養の仏事で檀家の皆さんのご先祖への報恩の心に応え、現世利益(げんぜりやく)と祖先崇拝(そせんすうはい)の両方を行うのが本来のすがたです

  • これまで本堂で行ってきました新年大護摩祈願は、従来どおり「初詣は菩提寺から」を合言葉に、毎年元旦・二日、檀信徒の皆さんにご家族連れでお詣りいただき、心願成就の護摩祈願を行います。
     成田山や川崎大師や栃木市近辺では出流(いづる)観音を護摩祈願のお寺としてよくご存じだと思いますが、当山住職も若い頃出流山で護摩の修行を行いました。当山の護摩供は、成田山や川崎大師や、高幡不動や大須観音と同じ真言密教の法儀に則って行っています。
  • 大師堂ではまた、一般の皆さんの参拝や、厄災消除・開運招福・縁結び・家内安全・商売繁昌・受験合格・交通安全などを祈る各種護摩祈願を、一年を通して随時行ってまいります。

■当山の年中行事について

 当山では、年中行事として以下の行事を行っています。

新年大護摩供
 前頁でもふれましたが、「初詣は菩提寺から」を合言葉に、毎年、元旦(午前十時・正午・午後二時)・二日(午前十一時)、檀信徒の皆さんにご家族連れでお詣りいただき、心願成就の護摩祈願を行っています。
 年々ご家族おそろいでのお詣りが増え、小さなお子さんも多く参列していただくようになってまいりました
 この行事をはじめてもう三十五年を過ぎましたが、まだ一度も参列されていない方がおられます。お正月の過し方はそれぞれですが、一度どうぞ新年早々の大師堂にお坐りいただき、真言密教ならではの護摩パワーを経験してください。
春彼岸、ご先祖の塔婆供養(御影供)
 三月二十一日が弘法大師のご命日に当ることから、真言宗のお寺ではお大師さまのお姿図(御影(みえ))を本堂にかかげ、ご命日の法要(御影供(みえく))を行います。当山ではそれにちなみ、春彼岸の前に、ご先祖の塔婆供養の法要を行い、お申込みいただいた方には、お墓参りの際すぐにお墓にお供えができるようにしています。
新盆特別供養会
 毎年、七月・八月のお盆入りの日(十三日)、十一時から、本堂で、新盆を迎える方のために新盆特別供養会を行い、お塔婆・お盆幡・お仏供を用意するとともに、法要終了後、住職から、改めてお盆の意味や盆棚(ぼんだな)のかざり方やお盆の迎え方などのお話をさせていただいています。
お盆の棚経
 お盆中、十三日の午後から檀家の皆さん宅にお邪魔をして、盆棚の前でお盆供養のお経(棚経(たなぎょう))をあげさせていただいています。ただお邪魔できる範囲と日数にかぎりがあり、栃木市内でもお邪魔できない地域があります。近年市内のお寺で棚経をやめ、お盆の入りの日あるいはお盆中、お寺の本堂でお盆会(おぼんえ)の法要を行い、檀信徒の皆さんにはそこに来ていただくやり方が増えているようですが、当山では行っておりません。
 お盆には、ご先祖が懐かしいわが家に三泊四日の里帰りをすることから、お盆迎えがあり、盆棚かざりがあり、各家ごとにご先祖の前でお経をあげてこそ、お盆供養の意味があるわけです。
 このお盆こそ日本が世界に誇れる伝統文化で、とくに八月のお盆は日本全国一斉に仕事が休みになり、多くの人が帰省しご先祖のお墓参りをします。盆踊りや花火大会などはその一環です。このお盆休みは、ご先祖にお墓参りをするために一斉に仕事が休みになるのであり、物見遊山のために休むのではありません
秋彼岸、施餓鬼会
 秋彼岸の九月二十五日、毎年恒例の施餓鬼会(せがきえ=おせがき)を行っています。当山の施餓鬼会は檀信徒の皆さんのお参りが多いことで評判です。
 江戸時代には何度か飢饉(ききん)があり餓死者が多く出ました。享保の大飢饉・天明の大飢饉・天保の大飢饉、また元禄の飢饉・宝暦の飢饉・延宝の飢饉・天和の飢饉などです。
 施餓鬼会は、そういう際にお寺の境内に餓死者を運びねんごろに供養をしたことにはじまり、食べられる時代になって餓死者ではなく、戦死者・戦争犠牲者・遺体の見つからない事件・事故の犠牲者・身寄りがなく供養をしてもらえない死者などを供養する仏事となり、やがてご先祖供養を合わせて行う法要に変化してきました。それにしましても、近隣寺院の住職が多数出仕して行う法要なのは、施餓鬼会がどのお寺にとりましても最重要だったことがしのばれます。今年は大震災の殉難者の御霊も供養します。

■当山にありうべき行事・活動

弘法大師ご縁日
 毎月二十一日がお大師さまのご縁日ですが、年に二回程度、季節のいい五月とか十月(あるいは十一月)に実施したいものです。
 お堂の外(境内)で行う柴灯護摩(さいとうごま)を中心法要とし、和太鼓+声明(しょうみょう、謳うように唱えるお経)・よさこいや、やすらぎ寄席などで花を添えるのも一つです。
 とくに落語はもともとお寺(のお説教)から発展した芸能で、当山住職は、本山の東京別院(港区愛宕)に昔あった愛宕(あたご)寄席をご本尊薬師如来のご縁日に復活した経験があります。「笑う門には福来る」で「笑いで満福」もまたいいのではないでしょうか。
世界平和祈願万灯会(まんどうえ)
 八月は、六日の広島原爆忌、九日の長崎原爆忌、十五日の終戦記念日と、世界平和を祈る月です。八月のいづれかの日の夕べ、大師堂を中心に当山の境内いっぱいに百本~千本のロウソクを灯し、先ほどの和太鼓+声明や日本と世界の愛唱歌を合掌する集いがあってもいいと思います。あるいは時に、一流のアーチストを招くのも一つでしょう。法話や講話、世界平和祈願の写経の集いも一考です。
三鬼尊縁日
 戦前戦後、昭和三十年の頃まで、一月十六日と八月十六日の縁日は「おにおさん」「おにょうさん」と近郷近在の人々によばれ、大変なにぎわいでした。当山境内にたくさんの露店が出て、祖父母や親に手を引かれて小さなお子さんが三鬼堂の前に列をなし、「無病息災」「発育安全」を祈りました。
 今、少子化の時代になり、町内に子供会がないのも珍しくないくらいですが、幼い子供の頃に神仏の霊威を感じさせるような新しい行事ができないものかと思案をしています。全国の鬼の祭りを調べてみると、参考になるものが多いことがわかりました。
四国八十八ヵ所霊場お砂踏み修行
 近い将来、大師堂のまわりに四国八十八ヵ所のご本尊か大師像を祀るお砂踏み所をつくりたいと考えています。一体一体、「南無大師遍照金剛」と唱えながら回ります。昔のお百度参りのように、願をかけるのもよし、亡くなられた人々の供養でもよし、大師信仰を手みぢかに養うことができます。
四国八十八ヵ所霊場お遍路
 四国は遠いですが、四国八十八ヵ所霊場お遍路は、真言宗の檀信徒にとって最高の信仰の旅です。当山でも過去に何度か団体でお参りしましたが、四国遍路ツアーも今は各種ありますので、機会を得て一度参加されることをお勧めします。何回かに分けてお参りする方法もあります。少人数のグループでまとまればお遍路さん専門のジャンボタクシーもあり、運転手さんがお納経から何でもやってくれます。
観音霊場巡拝
 西国三十三ヵ所観音霊場・坂東三十三ヵ所観音霊場・秩父三十四ヵ所観音霊場と、日本には百の観音霊場があります。かつて当山でも、住職が先達となってさかんにでかけましたが、檀信徒の皆さんのなかには個人で巡拝する方もあります。巡拝は信仰・健康・観光を兼ねた心の旅で、とくに定年退職をされた方・仕事の第一線を退いた方、いや現役世代の方でもけっこうです、関東地方にお住まいの方なら先ず鎌倉からはじまる坂東三十三ヵ所をひと巡りしてみてください。今まで気がつかなかった景色が見えるはずです。

■永代供養(えいたいくよう)

 お墓を守る次の世代がいない、あるいはお墓を守る人が近い将来いなくなる、という現実がさし迫っている家が目立ちはじめています。該当する方は、早めに一度住職と今後のことについて相談をしてください。永代供養という方法があります。

 永代供養とは、お墓を守る次の世代がいない場合、自分の代もそろそろ終ろうという方が、住職と相談の上で一定の金額の供養料(=永代供養料)を事前に納め、事後のお墓の守りと折々の供養を住職に頼んでおく方法です。

 これまで、永代供養といえば百万円を納めていただき、向こう三十年お墓は撤去せず、常々お掃除をしてきれいに保ち、春秋のお彼岸・お盆には香華をお供えし、春彼岸や施餓鬼会のお塔婆をあげさせていただき、三十年後にお墓を解体整理し遺骨を別な所に移すものですが、近々当山でも「永代供養墓所」(集合型)を墓地の一隅に建立し、もっと安価な供養料も設定し、これから次の世代がいない方だけでなく、事情あって夫婦だけのお墓を希望する方などのためにも役立てたいと考えております。

 該当する方には、身体が動くうちに、お金が何とかできるうちに、住職に一度ご相談ください。

■無縁墓・無縁仏について

 当山の「墓地使用規定」に、使用しなくなった墓所は、使っていた方の負担において解体整地し、お寺に返還していただくことが規定されています。この頃、それが全然守られず、お墓を守っていた方がいつの間にか音信不通になり、お花やお線香も供えられず、放置されたままの無縁墓が目立つようになりました。お墓を守っていた方がどうお考えだったのか、もし事情があれば如何様にも相談に応じたのに、と思うことしばしばです。

 というのも、お寺に何も言わずにお墓と遺骨を放置したままにする神経がわからないのです。お墓の放置、そこに眠る御霊の供養の放棄は、縁故者の大罪です。家が傾く、業病にかかる、家庭内がもめる、災いが起こる、不慮の事故が起きる、などの仏罰があたる一番の事例です。

 結局、法的な手順を踏み、石材店に頼んでお墓を解体し、遺骨を掘り出して別な場所に移葬するのですが、骨つぼ一つ一つに手を合わせ読経をしながらも可哀そうで涙が出てきます。不要になりそうなお墓をお持ちの方は、かならずお寺にご相談をお願いします。

 もう一つ、最近危惧していることがあります。古くからお寺や栃木市内の共同墓地にご先祖のお墓をもちながら、首都圏はじめ遠方に住んで永くなる方が、お寺や市内の共同墓地にあるご先祖のお墓をそのままにして(あるいは放置して)、自分はお住い近くの霊園などにお墓をすでに用意している例があり、この場合もお寺に何も連絡・相談がないと、やがてはお寺や栃木市内の共同墓地にあるご先祖のお墓は無縁になる可能性があります。いや、もうその実例があります。どうかご留意のほどお願いいたします。

■あとがき

 先祖を敬い、老父母を養い、子供を健全に育て、親戚関係を大事にする「家族主義」は、もともと東アジア儒教文化圏(中国・朝鮮・日本)の良き伝統文化でした。中国・朝鮮では今もなおそれを守っていますが、日本は戦後、アメリカの「核家族」を先進のデモクラシーと錯覚し、三世代家族を古い封建的風習として捨ててしまいました。

 当山の新しい本堂は、三世代家族の経験をした最終世代の、先祖や神仏を敬う心ある人たちによって、日本経済が低迷し、会社や商店の業績が悪化し、可処分所得も低下し、失業者や未就職者が増え、高齢者の万引きまで横行した時代にもかかわらず、成し遂げられた大偉業で、次の世代や次の次の世代に贈る「心の遺産」です。

 次の世代の人はおそらく、まだ続くであろうデフレ経済・格差社会・雇用不安・所得低下・年金不安のなかで人生や生活にあえぐでしょう。もし生きることの意味を見出せない時、その時こそ「温故知新」。「故(ふる=古)きを温(たず)ねて、新しきを知る」です。過去の日本人の「方法」に是非学んでみてください。この「檀信徒のしるべ」はその小さな入口です。