蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

人銘 当山ゆかりの人たち

田嶋隆純(たじま りゅうじゅん)
⇒ Wikipedia 田嶋隆純をご参照ください。
高久泰憲(たかく たいけん)

当寺第28世泰隆和尚の弟子。タカキュー(Taka-Q)創業者。栃木市都賀町出身、田嶋隆純などと同じ時期当寺で修学。

長澤實導(ながさわ じつどう)
⇒ Wikipedia 長澤實導をご参照ください。
長澤弘隆(ながさわ こうりゅう)

昭和45年(1970)より当寺第30世住職、第29世實導和尚の長男。インド哲学大乗仏教思想・空海密教の研究者。密教21フォーラム事務局長。

昭和36年より10年間、早稲田大学東洋哲学科(学部・大学院修士課程・同博士課程)で福井康順宮本正尊田中於菟弥金倉圓照原 實西 義雄栗田直躬等教授の指導に浴し、インド哲学・仏教の根本思想・大乗仏教思想の重要文献、サンスクリット語の文法・原語文典、中国の儒家・道家・法家思想の主要文献・道教思想、及び中国思想の影響を受けた日本思想を学ぶ。

一方、真言宗智山派別格本山出流山満願寺貫主竹村教智大僧正を師として行位を履修、同派管長那須政隆大僧正に従って入壇潅頂を受法、続いて伝法潅頂(大阿)・論議(竪者)を勤め阿闍梨位に就く。爾来、法臈まもなく50年、代々住職の念願だった当寺の伽藍復興・山容整備につとめる。

平成10年(1998)真言僧有志220人による密教21フォーラムを立ち上げて事務局長に就任。当初から『空海の夢』の著者で編集工学の松岡正剛の協力を得て、さまざまな公開フォーラムや教材ビデオにより空海密教の現代における意味(空海密教の現在化)を世に問い、情報・通信・技術・IT・編集・デザイン・出版・広告・服飾・文芸・美術・書芸・芸能・教育・評論・メディア等の職域で現代の日本社会を実際に動かしている人々に「空海の方法」と「密教の智慧」を伝える。さらに、ウェブサイト「エンサイクロメディア空海」により情報の世界に参入し空海密教を情報化してウェブ上に発信。当該サイトは、日本初の仏教開祖の専門サイトであり、質量ともに他の追随を許さないほどのコンテンツを搭載し、すでに数十万のアクセス数を得、空海密教に学ぶ人たちのすそ野を広げるのに貢献している。

田中一村(たなか いっそん)
⇒ Wikipedia 田中一村をご参照ください。
杉浦吉副(すぎうら きちふく)

元福島県相馬藩士。明治初期の自由民権活動家。

弘化3年生まれ。父は相馬藩の代官や勘定奉行を務めた杉浦吉寛、母はサク。杉浦家は京都で代々観世流能の鼓打ちの家柄で、元和8年当主が相馬藩主に請われて当藩に仕える。吉副は、長じて福島県役員や相馬町戸長を務めた後、第六銀行・三春銀行に勤務。その頃福島県の自由民権運動の指導者河野広中の影響を受ける。明治16年、福島県で自由民権運動を弾圧し鬼県令といわれた三島通庸が栃木県令に異動すると、河野広中などとともに栃木町に身を寄せ、明治17年鯉沼九八郎などと謀り三島県令の殺害と宇都宮に新築された栃木県庁の爆破を計画(加波山事件)。未遂に終って逮捕され、当山隣接の栃木裁判所で死刑に処せられる。遺骸は榊原経武(弁護士・初代栃木市長)など有志の手で当山に葬られた。

吉副の刑死からすでに130年、自由民主主義の時代になって70年余り。吉副に心を寄せる市民の間に犯罪者という汚名からの名誉回復の声が高まり、吉副を時代の先駆けとなった自由民権家として顕彰する碑が建立された。