蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

満福寺の歴史

 当山は、鎌倉時代弘長二年(1262)、京都醍醐寺(だいごじ)の報恩院(ほうおんいん)の学僧憲深和尚(けんじんわじょう)の弟子だった朝海法印(ちょうかいほういん)という修験(しゅげん)の僧が、日光修験の途中、当地大平山東面の山麓に小堂を建てて修行道場とし、そこに止宿して日夜天下泰平・五穀豊穣・万民豊楽を祈るご祈祷を行ったことにはじまります。爾来時を経て平成二十三年、開創より数えて七五〇年になりました。


 朝海法印の後を継いだ住持や弟子たちは、地元の薗部村や大平山麓の村人たちのために五穀豊穣・家内安全を祈祷し、その恩恵に浴した人たちから所有地や田畑や堂宇の寄進を受け、寺勢を次第に広げたものと思われます。明治の廃仏毀釈で廃寺となり現在共同墓地として残っている薗部の通称「六道墓地」は、江戸時代には当山門下の僧侶が止宿をしていた住坊でした。ここが、朝海法印のあとの時代、大平山麓から移った満福寺の旧地ではないかと思われます。室町時代には、十三の下寺・住坊をもつ中本寺(ちゅうほんじ)となりました。


 豊臣秀吉の天下となり、当地を治めていた皆川城主・皆川広照(みながわひろてる)により栃木城ならびに城下町の造営が行われた際、当山は栃木町郊外にあった寺院(近龍寺・定願寺・延命寺)とともに現在の地に移転し、時には皆川氏の兵糧や武器を隠す軍事上の要塞となる役割をも担いました。

 天正十九年十一月には、相模小田原城の北条氏平定後、豊臣秀吉から関八州を与えられた徳川家康が、関東管領(かんとうかんれい)としてなお関東に影響力をもつ越後上杉勢の様子をさぐるため、小田原攻めのさなか家康の仲介により豊臣方に付いて勲功をあげた皆川広照の領地で鷹狩りを行った際当山にて休息し、応接に出た住職が当山の縁起や天下泰平・万民豊楽の祈祷以外二心なきことを述べると大いに満悦し、のちに朱印地五石」を下されたといわれています。


 余談ながら、皆川広照は北関東の一隅にあって、関東管領上杉氏(越後・上野)と相模の北条氏(小田原城)が北関東の攻略でせめぎあうなか、乱世を生き残るため機を見ては付くべき主家を選びつつ、最終的には徳川家康の恩顧を得ました。その家康との橋渡しをしたのが叔父に当る学僧玄宥僧正(げんゆう、新義真言宗根来寺学頭、塔頭智積院住職、今の真言宗智山派総本山智積院(京都)化主第1世)といわれています。
 玄宥は、現在の栃木市出身の人で、吹上(現、栃木市吹上町)城主・膝付又太郎の子に生れ、幼少にして仏門に入り、皆川広照の居城皆川城(現、栃木市皆川城内町)の鬼門を守る「持明院」(真言宗、現豊山派)から紀州の根来寺に上っています。
 広照は家督を継いで4年の天正8年(1580)、栃木城の拡張と栃木町の造成を進める一方、家康の家臣を通じて家康に接近、翌天正9年(1581)には玄宥を伴って家臣を織田信長の安土城へ派遣し名馬3頭を献上したことが伝えられています。また、豊臣秀吉・徳川家康の連合軍が小田原の北条氏を攻めた時、北関東の一軍として小田原城に参陣した広照は、家康の呼びかけに応じ北条氏の陣から離脱して豊臣・徳川軍に加わったとも言われ、またこの徳川方へのいわば寝返りも玄宥の助言によるものと言われています。
 その頃玄宥は、高野山から分かれた新義真言宗根来寺の塔頭学門寺の智積院のトップで、秀でた学殖の故に根来寺全体の学頭(今の大学学長)の地位にあり、のちに根来寺の僧兵(徳川方)が豊臣秀吉に敵対して全山が焼打ちにされ、一時高野山に難を逃れていましたが、関ヶ原の戦いのあと京都東山七条の豊国神社内の付属寺院に智積院と自身を移すことができたのは、ひとえに家康の加護があったからでした。
 その智積院が今の真言宗智山派総本山智積院で、つまり今の総本山智積院は、戦国時代に徳川家康に味方した玄宥と、その玄宥の導きで家康を主とした同郷の城主皆川広照がいなければなかったかもしれません。


 三代将軍・家光の時代、九州の天草島でキリシタンによる天草四郎の乱が起きて以後、徳川幕府はキリスト教の普及を厳しく取締まり、キリシタン禁制の一環として「宗門改め」(住民をお寺の檀家として登録し、そのお寺の宗旨に従わせる)を行いました(その時の住民登録帳簿を「宗門人別帳」という)。今の檀徒制度のはじまりです。

 当山の過去帳(死者の名や戒名の記録簿)は、元禄元年から記録がはじまっています。つまり檀家となった家は、野辺に穴を掘って死者を土葬する(封じ込め)だけの葬儀ではなく、菩提寺の住職を頼み、戒名をつけて読経供養し、死者を清めてもらう(浄霊)仏式の葬儀がその頃には定着していたことが推察されます。

 古い時代をみると、薗部町・片柳町の農家、例えば○○ヱ門さんという方に院号の戒名もつけられ、お寺に相当な寄進をされた形跡が読み取れます。当時はまさに、院号とはお寺を一つ造った、あるいはお堂を一宇建立したことと同じだったからです。当時のお布施はほとんどが物納、つまり米・麦・雑穀、あるいは土地やお堂などの寄進でした。お寺にも五石ほかの田畑がありました。


 江戸時代は幕府の庇護のもと通称小山街道に面して(今の宇都宮地方裁判所栃木支部の敷地)大門と御成門(将軍がくぐる門)が立ち、十間四面(約100坪)の本堂をはじめ多宝塔(たほうとう)・大師堂(だいしどう)・薬師堂(やくしどう)・不動堂(ふどうどう)・稲荷社(いなりしゃ)・聖天堂(しょうでんどう)・三鬼堂・大書院(おおじょいん)・坊舎(ぼうしゃ)・住房(じゅうぼう)が、広い境内に建ち並ぶ大伽藍となりました。しかし、王政復古(おおせいふっこ)・明治維新も間近の幕末文久二年、当山近くから出た大火により威容壮麗を誇った諸堂伽藍が、「三鬼堂」(土蔵)を残しことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまいました。


 この大惨事は、当山に致命的なダメージを与えました。しかも時代が悪く、明治政府による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって仏教寺院はことごとく弾圧を受け、当山とて例外ではなく、本堂や住職の住む住房(庫裡)すら復興できない状態でしたのに、境内とその周辺の所有地を国に召し上げられ(例えば、今の宇都宮の地方裁判所栃木支部の敷地の多く)、栃木町の中心市街地ほか薗部村・片柳村・平柳村・城内方面に相当の数の檀家をもちながら、住職の住むところもない住職不在のお寺となるなど、二重三重の打撃をこうむったのであります。


 このように何もない焼け跡の当山に、明治の半ば過ぎ復興の大志をもって晋住したのが富山県礪波郡から来た長澤泰純和尚(たいじゅんわじょう、現住職の曽祖父)でした。

 和尚は民家の母屋一棟を求め、これを境内に移築をしてご本尊(大日如来)をお祀りし、本堂兼客間兼庫裡(住職の住い)としました。これが先年客殿建設の際に解体された老朽の建物であります。泰純和尚は、お寺としてはお堂らしいお堂もない仮の姿のまま、長寿をまっとうして九十四歳で亡くなるまで当山復興の基礎づくりに努力しました。


 爾来当山は、伽藍の復興こそ第一の寺となりました。しかしなかなか思うにまかせず、泰純和尚のあとを継いだ泰隆和尚の時代に本堂再建を幾度か試みようとしましたが、戦争などで実現に至りませんでした。戦後はお寺もまた苦難の時代で、兵役から復員した弟子たちを養うにも、寺有財産だった広大な田畑を農地解放ですべて失い食料確保に困窮し、お布施でいただけていた米・麦・雑穀も欠乏し、境内に蔬菜類の畑を耕してしのいだのであります。

 戦後もしばらくは伽藍の復興どころではない時代でした。泰隆和尚は無欲の人で、伽藍の復興にさほど意欲的ではありませんでした。この時代には、大きな資産や財力をもった大檀家も相当数あり、また檀家の数も相当増えていたのでしたが、伽藍復興の槌音はとうとう聞かれませんでした。相変わらずお堂らしいお堂もない仮の姿の当山でした。


 泰隆和尚の後の實導和尚(じつどうわじょう)は愛知県名古屋の人(お聖天様で有名な福生院(袋町お聖天)の内弟子)で、宿縁あって当山の長澤家に婿入りし、教授として東京の大正大学の教壇に立つ仏教学者でしたが、在職三年、当山の復興に着手する間もなく五十九才の若さで突然くも膜下出血を発症し急逝してしまいました。かくして当山の復興は、二十五才で当山の法灯を守ることになった現住職の双肩にかかることになったのです。

昭和40年頃の当山
昭和40年頃の当山
昭和60年頃の当山
昭和60年頃の当山

 昭和四十九年に本堂の再建平成元年に新客殿の建設と、檀信徒各位のご信助によって当山に久方ぶりに復興の槌音が鳴りひびき、同じ寺格の他の寺にはまだ及ばないものの、ようやくお寺としての最低限の格好と機能が確保されました。実に、全山を焼失して以来100年ぶりのことでした。

 そうして平成十八年七月から翌年六月にかけて、門前の割烹「新田川」の土地・建物の取得を契機に、隣接の民家三軒(土地は当山の賃貸地)の立ち退き、さらにはカラオケスナック「ドレミ」の土地・建物買収、そして家屋の解体ならびに駐車場の整備と、出入口周辺の景観整備が行われました。

 その間、開創七五〇年慶祝事業の浄財勧募には、檀信徒各位の有難いご理解とご信助が寄せられ、平成二十年五月新本堂の地鎮式法要が、翌年の五月には上棟式法要がいずれも古式に則って奉修されました。そして平成二十三年一月末、欅(けやき)・桧(ひのき)・桧葉(ひば)といった高級木材と、社寺建築専門の匠の技を駆使した壮麗な新本堂ができあがりました。

 続いて、新本堂と客殿を結ぶ渡り廊下の建設や新本堂の周辺をはじめとして外塀・敷石・植栽など境内の整備が行われ、旧本堂は新大師堂として改修されました。当山はやっと昔の伽藍の面目を半分程度回復したのであります。