蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

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鈴木大拙:「ミスリード」の「非」

 思想とか哲学を論じるのに、私の知る限り、およそ二つの「方法」がある。

 一つは、学者・研究者といわれる学人の客観的・考証的な論述の「方法」。古文献や古資料を客観的根拠とし、その原典・原文を厳密に読み込む一方、定説や先行する論考を「援用」して同意や反論の傍証とし、できる限り広い視座で、客観性・厳密性のある自説を展開する「方法」。これは、理系・文系を問わず、現今の学問・学術の世界では常識のアカデミズムである。私が学んだ早稲田大学東洋哲学科は、厳密な文献考証で著名な津田左右吉先生の「方法」を伝統とするところであり、中国学もインド学も仏教学もみな厳密な原典解読からはじまった。
 ただこの「方法」には、ややもすると、論述の客観性を確保するための文献研究がいつの間にか目的化してしまうキライがあるのと、文献や客観性ばかりに気を取られ自説・主張がないとか、学者・研究者自身の思索や思想が表に出てこない、といった傾向がある。

 もう一つはむしろその逆で、思索家や思想家が主観的・創造的な自説を論述する「方法」。その際、古文献・古資料を主観的根拠とし、その原典・原文の厳密な解読は要らず「誤読」でもいい。また、先行する哲理・思弁・概念などを「援用」する場合も、客観的な真意はともかく自己解釈による勝手なつまみ食いでもいい。加えて、それらをつまんできて典拠も明かさず、自説の組み立てのなかに潜ませ、自明のように論じるのもいい。
 ただこの「方法」は、主観的な独断・偏見・極論を許し、古文献や古資料の「誤読」を許し、先行する哲理・思弁・概念などの「剽窃」(「いいとこ取り」)や「受け売り」も許し、かつそれらを自説のように言うこと(今で言うパクリ、コピペ)も許すことになる。
 今から論じようとしている鈴木大拙師は、この「方法」の人である。師は大学の教壇に立ったほどの学人なのだが、その論述には主観的な独断・偏見・極論=「ミスリード」が目立つ。

 然らば、「禅の大家」「世界の禅」としてよく知られている鈴木大拙師(以下、大拙師、師)にした「ミスリード」(「mislead」)とは何か。
 師には、古文献や古資料の原文「誤読」、それからその「誤読」に基づく論理の「飛躍」、さらには主観的な独断と偏見に基づく日本の歴史や文化や社会や民俗の解釈と極論がある。合わせて、その極論を客観的な自明の定説であるかのように論述することしばしば。自説(主観)はまるで事実(客観)であり、この妙な「主客同一」(私によれば主客混同)的な論述は、いかに主観的な思索・思想の発出であっても強引であり、これを私は「歪曲」と言っている。

 以下、師の「ミスリード」について私なりの異見を述べていくのだが、それを具体的に言えば、

「即非の論理」の根拠とされる「金剛経」の「誤読」「飛躍」
「日本的霊性」において極論に自説を我田引水する「歪曲」
についてである。

第一節 「金剛経」の「誤読」と論理の「飛躍」に基づく「即非の論理」

 早速ながら、「即非の論理」のヒント、あるいは根拠とされる「金剛経」経文の「誤読」と論理の「飛躍」からはじめる。
 この問題について私は、『金剛般若波羅蜜経』(『Vajra=cchedikā=prajñāpāramitā Sūtra』)の経文の「誤読」と論理の「飛躍」によるもので、経文の文意と師の「即非の論理」の間に齟齬があり成立しないと批判したことがある(拙著『空海ノート』最終章、『空海の総合仏教学』第九章八)。
 まず、その当該の経文であるが、師の『日本的霊性』第五篇金剛経の禅、二般若即非の論理、5般若の論理に、

仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是名般若波羅蜜
仏ノ般若波羅蜜ヲ説クハ、即チ般若波羅蜜ニ非ズ、是ヲ般若波羅蜜ト名ヅク
とあり、この経文を師は、
仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない。それで般若波羅蜜と名づけるのである
と書き下しし、これを
AはAだというのは、AはAではない。故に、AはAである。
という定式化された論理にし、これを有名な「即非の論理」としたのである。

 参考までに、この経文の文意・読み取り方を私の拙い「解釈」で紹介すると、

仏(如来)が(大乗の般若思想=「空」の立場で)説く般若波羅蜜とは(「無自性」=無実体であるから)、即ち(世間の凡夫が「有而性」=有実体(実在)として執著する)般若波羅蜜ではない。
だから、(本来は無実体で名称などないのだが、コトバで理解する世間の凡夫にもわかるように、仮に)般若波羅蜜と(世間の名称で)名づけたのである。
となる。大乗仏教を少し勉強した人ならおよそこう解釈するだろう。これを師は、
山を見れば山であるといい、川に向かえば川であるという。これがわれらの意識である。ところが、般若思想では、山は山ではない、川は川ではない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである。・・・・すべてわれらの言葉、観念、または概念というものは、そういう風に。否定を媒介して、始めて肯定に入るのが、本当の物の見方だ、というのが般若論理の性格である。
(前掲書)
と「説明」し、
AはAだというのは、AはAではない。故に、AはAである。
これは肯定が否定で、否定が肯定だということである。・・・
微塵というのは微塵でないから微塵だというのである。
仏は三十二相をもっているといわれるが、その三十二相は
三十二相でないのである。それで三十二相があるといわれるのである。
(前掲書)
と定式化された論理に変換した。

 しかし、「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない」は「AはAではない」にはならない。文型は似ているが意味がちがう。師が言う「AはAではない」は、「A(私)」が自分を否定(自己否定)して自己否定する前の「A(私)」ではないという意味で、師はこれを「即非」と言うが、「仏の説き給う般若波羅蜜というのは、すなわち般若波羅蜜ではない」は「般若波羅蜜」が自己否定するわけではないし、経文の「即非」は否定形であるがその文意は「如来」の大乗「空」の立場と世間凡夫の「執著」の立場の「ちがい」を言い表すもので、「AはAではない」という意味にはならない。大拙師はここを読みまちがえた。「誤読」であり、「般若思想では、山は山ではない、川は川ではない。それ故に山は山で、川は川であると、こういうことになるのである」は論理の「飛躍」である
 さらに、「それで、般若波羅蜜と名づけるのである」のところも「故に、AはAである」にはならない。ここは「如来」の説く「般若波羅蜜」は、本来無実体で名称などないのだが、コトバで理解する世間の凡夫にわかるように、仮に「般若波羅蜜」と(世間の名称で)名づけた、という文意であるから、「故に、AはAである」にはほど遠い。
 ここは龍樹が言う「仮(け)」のこと(「仮設(けせつ)」、「空・仮・中の三諦」の「仮」、コトバで表せない「空」を「仮」にコトバで言うこと)であり、「否定」でも「肯定」でもない。どちらでもない「中」であって「否定即肯定」ではない。

 師はこれを無理に「否定即肯定」の論理にした。(「空」)「仮」「中」がわかっているのか、わかっていないのか、こういうだいじな問題に全然言及しない。大乗の重要な般若思想(「空」)の問題にかかわることなのに何の説明もなく、まるで自明のことのように「誤読」「飛躍」で考え出した自作の論理を「般若思想では」などと言って客観化するのだ。
 師は経文の文意を仏教学で普通読むように読み取らず、漢訳の定式化された文型の方を利用し、その文型をなぞるように論理化しただけである。その際、経文のキーコンセプトである「仏(如来)」(大乗の「空」)と「世間の凡夫」(執著、コトバ)の「心位」をまったく飛ばした経文の一番だいじなところを、わかっているのか、わかっていないのか、見ていないこれを私は「誤読」「飛躍」さらに「歪曲」と言うのである。

 というわけで、自己が自己否定して即自己肯定する師の「即非の論理」は般若思想でもなければ「般若即非」でもなく、経文の「誤読」と論理の「飛躍」に基づく自己流の禅的な「頓知」、「公案」的な創作論理である。もうここに冒頭に指摘した主観即客観の(自分の主観的な見解があたかも客観的であるような)論法が見える。

 以下、その「誤読」「飛躍」を指摘した拙著の当該箇所(夢譚形式)を紹介しておく。

――空海はつづいて、鈴木の「即非の論理」と西田の「絶対矛盾的自己同一」への疑義を、そのヒント、あるいは根拠となったという『金剛般若経』をもとに言うのだが、二人は黙ったままである。
▼ところで、鈴木さんの「即非の論理」は『金剛般若経』の「仏説般若波羅蜜多即非般若波羅蜜多 是名般若波羅蜜多」にヒント、あるいは根拠を得えたと聞いておりますが、失礼ながら、あれは『金剛般若経』の「ミスリード」です。あれを「即非の論理」にするのは無理です。
 例えば、西田さんが例示する「言フ所ノ一切法ハ、即チ一切法ニ非ラズ。是ノ故ニ一切法ト名ヅク」を『金剛般若経』流に言えば、「(如来の説く)言うところの一切法は、即ち(私たち世間の凡夫が我見で言う)一切法ではない。だから(私たち世間の凡夫にもわかるように、仮に)一切法と(世間の名称で)名づけたのである」という意味ですね。
 これを「AはAにあらず、故にAである」と単純「定型化」し同語反復の公式にするのは無理です。経文の言葉ジリは似ていますが意味がちがいます。『金剛般若経』的に言うと「如来の説くところのAは(私たち世間の凡夫が言う)Aではない。であるから(私たち世間の凡夫にもわかるように)Aと名づけたのである」となるべきところ「AはAではないから、Aなのだ」という奇妙なパラドックスフレーズになってしまいます。
 これは漢訳の「修辞(レトリック)」によって「定型化」「公式化」された文型をなぞっただけで、言葉が否定から肯定にひっくり返るから、いかにもA自体が否定されて即肯定されるように思いがちですが、実際にひっくり返るのはAではなくAを見る人の「心位」のちがいです。Aを見る人の「心位」が「凡夫」の「心位」(世間、因位、煩悩)から「如来」の「心位」(出世間、果位、サトリ)に変位するだけです。Aは客体であって変位しません。
▼そもそも『金剛般若経』自体が初期の般若経典と言われていますが、般若思想は「即非」の思想ではありません。だから、鈴木さんがおっしゃる「即非の論理」(「自己否定即肯定」)のような「論理」をこの経文が言っているわけではありません。
 私は『金剛般若経疏』を唐から持ち帰り『金剛般若経解題』という註釈を書いたくらいですが、『金剛般若経』には「空」という語はありませんが、説かれているのは明らかに大乗の「空」です。慧能さんが「金剛経」の一句で大悟したようで、「金剛経」は禅門の必読必修の書かもしれません。ですが『金剛般若経』は「即非の論理」を説くお経ではありません。「ミスリード」です。早とちりです。仏教の基礎である「無我」・「無自性」・「空」の読み取り方にうかつですね。「唯識無境」でも、「境」(客体)が自ら自己否定するわけではなく、認識する側(主体)が「空」に変位(自己否定)するからそうなるのです。それを「境は境に非ず、故に境である」とは言わないです。

――空海は、今度は西田への疑念を明かす。
▼話を少し戻しますが、西田さんのおっしゃる「絶対矛盾的自己同一」や「逆対応」は鈴木さんの受け売りだと言われても仕方がないと思いますが、「即非の論理」が自明のことのように独り歩きしています。客体であるA自体が「即非」すなわち自己否定して即自己肯定する論理になっています。これでは主客の顛倒です。客体A自体は変位しませんから。
 青原老師は「山を見るに是れ山、水を見るに是れ水」、「山を見るに是れ山にあらず、水を見るに是れ水にあらず」、「山を見るに祇だ是れ山、水を見るに祇だ是れ水」と言いましたが、これを、あなたなら「山は山にあらず故に山である、水は水にあらず故に水である」と言うでしょう。
 主客が顛倒するあなたの「否定即肯定」の論理では、客体である「山」や「水」自体が「即非」して自己肯定することになる。しかし「山は山」・「水は水」で変らない。変るのは見る側の「心位」であって、「美しい山」・「大きな山」・「清らかな水」・「おいしい水」から「美しい」・「大きな」・「清らかな」・「おいしい」が脱落するだけです。
 あなたは禅の内観体験で「私」(主体)が「私」(客体)を見る、そして「私」(主体)が脱落して「私」(客体)だけの境を経験されたと思います。でも、それも「私は私にあらず、故に私である」にはならない。「私」(客体)が変位するわけではありませんから。
 あなたのおっしゃる「即非の論理」は、「私」(客体)に自己否定と自己肯定とが撞着する「見性」じゃないとダメなわけです。だからあなたの「絶対矛盾的自己同一」は、「私」(主体)が「自己否定即自己肯定」する論理としては成立しません。
 「山は山にあらず、故に山である」の「山」と同様に「私は私にあらず、故に私である」の「私」は「ただ」の「私」です。その「ただ」の「私」が見える「私」は、「私は私にあらず」の「私」ではなく、「見性」している「私」です。
(前掲書)

第二節 「誤読」「飛躍」の背景

 然るに、この大拙師の「誤読」「飛躍」の問題については、私のような一市井の草学道が指摘するまでもなく、立川武蔵先生など一流の仏教研究者からも批判や疑念がすでに出されている。そして、私が畏敬してやまない安藤礼二氏は近刊の『大拙』(講談社)のなかで次のように告白している。

大拙の「即非の論理」に対する批判は、現在でも根強い。仏教の経典(「金剛経」)からの直訳に「即非の論理」を導き出すためには、経典の字義的な解釈からの大きな飛躍が必要になる。つまり、「即非の論理」は、経典の正統な解釈のみからは直接に導き出せない「論理」なのだ。仏教学者、仏教研究者たちからのこうした批判はもっともであり、今後の大拙研究においても必要不可決であるはずだ。
(『大拙』第五章)

 私の指摘はあながち的外れではなかったが、安藤氏ほどの人にここまで正直に言われると、納得である。「即非の論理」は、安藤氏が認めているように「経典の正統な解釈のみからは直接に導き出せない「論理」」であり、「字義的な解釈からの大きな飛躍が必要になる」ものなのである。末木文美士氏も「大拙の解釈は適切ではない」と言っている(『日本的霊性』「解説」)。

 私たち仏教研究者は、サンスクリット原典や漢訳やチベット訳を文献考証し、当該原文を比較対照しながら正確に文意を確かめて日本語に訳し、その上でテーマに基づいた論述を展開する。文献・資料の「誤読」や文意の読み違えや論述の「飛躍」は禁物で、厳密なことが最重要である。それは近代の仏教学の基礎・基本である。
 しかし大拙師の「論理」構築は、客観資料の学問的・客観的な読み取りなど必要なく、個人的・主観的着想によって客観資料の文意から「飛躍」しても一向にかまわないのである。つまり、参考にした客観資料の「誤読」OK、依拠する文言の文意・文脈からの「飛躍」もOK、つまりは依拠する文言とは関係性のない「論理」が成り立つのだ。

 では、一流の仏教研究者からの批判もすでにある師の「誤読」「飛躍」は、どこにその原因・背景があるのか、である。

 そこでまず思い浮ぶのは、井筒俊彦氏が言う「思索家の「誤読」」である。

思想史、哲学史の専門家たちは、当然、過去の思想家の誰彼を取り上げて研究する。
(略)それが学問というものであるからには、誰もそれに文句は言う人はいない。
しかし、そういう専門的研究家たちとは別に、自ら創造的に思索しようとする思想家があって、この人たちも、研究者とは全然違う目的のために、過去の偉大な哲学者たちの著作を読む。現在の思想文化が、過去の思想的遺産の上にのみ成立しているものである以上、これもまた当然のことだ。こうして現代の創造的思想家たちも、己の哲学的視座の確立のために、あるいは少なくとも、強烈に独創的な思索のきっかけとなるであろうものを求めて、過去を探る。
(略)これをテクストの「読み」という。過去のテクストの「読み」を出発点として、その基盤の上に思惟の創造性を求めることは、現代西洋哲学の一つの顕著な「戦略」である。
厳密な文献学的方法による古典研究とは違ってこういう人たちの古典の読み方はあるいは多分に恣意的、独断的であるかもしれない。結局は一種の誤読に過ぎないでもあろう。だが、このような「誤読」のプロセスを経ることによってこそ、過去の思想家たちは現在に生き返り、彼らの思想は溌剌たる今の思想として、新しい生を生きはじめるのだ。
(略)西洋思想界のこのような現状に比べれば、東洋思想、東洋哲学の世界は沈滞している、と言わざるを得ない。勿論、研究者の数は多い。現に日本でも無数の専門家たちが、今も昔も変りなく、東洋思想の貴重な文化的遺産を、孜々として研究している。だが、それらの思想文化の遺産を、己れの真に創作的な思索の原点として、現代という時代の知的要請に応じつつ、生きた形で展開しているといえるような、つまりは東洋哲学の古典を創造的に「誤読」して、そこに己れの思想を打ち建てつつあるような、独創的な思想家は、残念ながら我々のまわりには見当らない。現代日本の知の最前線にある思想家たちが、自分の思索のためのインスピレーションを求めて帰っていく古典は、例えばマルクスでありニーチェであり、ヘーゲルであって、東洋哲学の古典ではないのだ。
(『意味の深みへ』七意味分節論と空海)

 大拙師の後継者と言われる井筒俊彦氏は、安藤氏と並び私が畏敬の念をもってその著作を読ませていただいている思想家であるが、創造的な意味での思索家・思想家の「誤読」(自己の思索を深めるあるいは止揚する意味での、マルクスの「自己的解釈」、ニーチェの「自己的解釈」、ヘーゲルの「自己的解釈」)を認めていて、大拙師の「誤読」や「飛躍」も思索家に許される「誤読」ではないかと思ったのであるが、井筒氏は「東洋哲学の古典を創造的に「誤読」して、そこに己れの思想を打ち建てつつあるような、独創的な思想家は、見当たらない」と言う。
 井筒氏の目には大拙師が「東洋哲学の古典を創造的に「誤読」して、そこに己れの思想を打ち建てつつあるような、独創的な思想家」とは映っていないのだ。故に師の「誤読」や「飛躍」は、「東洋哲学の古典を創造的に「誤読」して、そこに己れの思想を打ち建てつつあるような」、思索家には許されてもいい「誤読」ではないのである。

 然らば、師の「ミスリード」の原因・背景で次に考えられるのが、悪く言えば、仏教に対する師の非学問的な向き合い方、つまり偏狭な「宗学」のことである。

 まず、師は「金剛経」をどの程度まで勉強したのか、もっと言うと今の仏教学のような文献考証(せめて漢訳数本の比較対照)やサンスクリット原典・漢訳・チベット訳による厳密な日本語訳や般若思想の思想史的把握を十分にしたか、もしご自身でできなかったら専門家の教示を仰いだか、である。おそらく、そのどれもしていないだろう。そして円覚寺あるいはどこかの禅道場で依るべき師に教わったか、独学したか、なのであろう。

 師の「即非の論理」は師の禅門(「看話禅」)の「宗学」の倣いではないか、悪く言うと経文の文意から離れてもかまわず、漢訳の文型の「修辞(レトリック)」を禅の「公案」的論理に使うのは、「宗門」独特の「頓知」ではないか。この換骨奪胎のような、無理筋でも通してしまう飛躍の「論理」を、私は「宗学」と見たのである。
 それにしても、師が思いさえすれば、東大や学習院大や大谷大学で教鞭を取る経歴からして、東大印哲や仏教系大学に人を求めさえすれば『金剛般若経』のサンスクリット原文和訳や漢訳の比較対照、そして厳密な解釈などいとも簡単だったに相違ないのだが、どうもそういう姿が師に想像できない。禅門の「宗学」しばりとしか考えられないのである。そこには、仏教研究者(アカデミスト)としての師はいない。
 師は、若くしてアメリカに渡り、そこで出会ったジェームズほか思想家や研究者との「知」の交流の場ではさしたる問題もなかったが、後述するように、師の『大乗仏教概論』は三十代に禅の立場で「如来蔵」を書いたにもかかわらず、ヨーロッパの仏教学界を代表するルイ・ドゥ・ラ・ヴァレ・プサン氏に真言密教だと厳しく批判された。師の「大乗仏教」はヨーロッパの仏教学に通じなかった、師の「如来蔵」思索は禅ではなく真言密教だった、つまりは師は大乗の思想史ひいては仏教思想史に疎かったのである。「誤読」や「飛躍」も辞さない禅の「頓知」は、ヨーロッパの仏教学の前では歯が立たなかったのである。それ以降師は、大乗仏教を全く書かなくなり、専ら法然・親鸞の浄土信仰に傾斜したという。余程のショックだったのだろう。このことは、師の仏教の勉強の仕方や理解度、あるいは日本文化の勉強の仕方や理解のレベルと通底している。ハイデガーとは「誤読」や「飛躍」で哲学論を語れても、仏教思想や日本文化は(客観資料としての古典などもあり)主観的独断と偏見では語れないものである。

 師の禅門では、中国禅宗の第六祖慧能(南宗、「頓悟」系)が「金剛経」の一句で大悟したことから「金剛経」を重用する伝統があるらしく、禅者にとっておそらく必読・必修の聖典で、あるいは独学は許されず師から指南されるものかもしれない。そうすると「宗門」内あるいは道場内で「誤読」・「飛躍」を止めることはまず不可能で、ウィルス感染のように広がっていく。師もその「宗門」の伝統のなかで「誤読」・「飛躍」に感染したのかもしれない。禅者としての師は学人ではなく「宗門」人なのである。
 「宗学」というのは一種の信仰教学のようなもので、客観的学問的であるより主観的信仰的なことを優先するものなので「誤読」・「飛躍」はしばしばある。信仰教学には、仏教学などという学問は無用なのである。しかし、師ほどの学識ある居士が「宗学」に無批判的に従うものかと私などは思っていたのだ。

 時に、「金剛経」のサンスクリット原文を見ても「AはAだというのは、AはAではない。故に、AはAである」にはならない。また、いくつかの漢訳があるが、師が依用した鳩摩羅什の漢訳は経文を簡略化しかつ定式化を多用している。そして、それをまた冗長に繰り返す。
 その「金剛経」の経文の文意を離れ、定式化された漢訳の「修辞(レトリック)」の方を師は選んだ。しかし、経文に説かれる般若思想=大乗の「空」は、師の言う「否定が肯定」「肯定が否定」(否定と肯定の相即)にはならない。仏教思想史的に言えば対立二項が「空」を媒介にして主客が「相即」するのは、龍樹の「彼あるによって此あり、彼あるによって此あり」という「相依相待」の「中」を説く『中論』を経て、「如来蔵」(『大乗起信論』)にならなければそうならない。先にもふれたが、師には仏教思想史に目を配らず独断に走るキライがある。

 再度、言う。
 「金剛経」の「誤読」と論理の「飛躍」に基づく「即非の論理」は成り立たない。「般若即非の論理」ではなく「漢訳の論理」「鳩摩羅什の論理」と言うべきである。大拙師の論述は、学問的な裏付けのない客観性を欠いた独断的自論に終始する。それが、禅門の「宗学」の倣いなのか、禅体験からくる師特有の(直観的)思考法なのか、いずれにしても独断的「ミスリード」である。

第三節 「日本的霊性」という独断と偏見

 ここまで「即非の論理」を例にして、大拙師の「誤読」や「飛躍」に基づく「論理」の展開について述べ、その原因・背景として、思索家の「誤読」の問題と、禅門の「宗学」の倣いという観点を考えてみたが、次に述べる師の「日本的霊性」は日本史・日本文化史・日本精神史・日本の宗教・日本仏教に関する「ミスリード」のオンパレードである。この主観的「歪曲」は客観的な文献・資料に基づくわけでもなく、学術論文や学界の定説の裏付けがあるわけでもなく、主観的で非学問的なレベルの「創作」である。従って、「日本的霊性」と言えばいかにも文化人類学的な広い視野の論のように聞こえるが、師の主観的見解である。しかも、この「日本的霊性」という「創作」の主人公は鎌倉時代の武士と農民で、その論述からはしばしば左系偏向新聞を思い浮かべることもある。平安時代の「大宮人」(朝廷・貴族)に対する階級的な反感・反発心さえも感じる。あまりに独断と偏見に基づく極論もあり、目をそらしたくなることもある。

 では、いくつかの例を挙げて私の見解を呈していきたい。
 「霊性」と言えば、
 西欧のキリスト教世界で宗教用語あるいは文化用語として言われる「霊性」(spirituality)としては、「気息」「呼吸」「大いなるものの息」「エネルギー」「聖なる権力」「超自然的な存在」「善の天使」「聖霊」「悪霊」「霊魂」「精神」「生命の原理」「精気」「誇り」「自尊心」「道徳」「知性」「才知」「聖職者」「敬虔や信仰の内実」などである。
 日本で言うと、例えば鎌田東二氏は、日本で「霊性」に最初に言及したのは道元であり、彼が問題にした「霊性(れいしょう)」とは、中国華厳宗の第五祖で華厳思想と「荷沢禅」の一致(「教禅一致」)や儒・仏・道の「三教融合」(『原人論』)を説いた(圭峰)宗密の、「初め唯だ一の真の霊性あり、不生不滅 不増不減 不変不易なり」を「かの外道の見は、わが身、うちにひとつの霊知あり、・・・かの霊性は、・・・ながく滅せずして常住なりといふなり」(『正法眼蔵』)と道元が批判したなかの「霊性」である。宗密の言う「霊性」とは「不生不滅」など「空」の哲理のことと思われるが、道元はわが身のなかに霊的(霊魂的)なものがあるという「外道の見」だと見た。
 さらに鎌田氏は、神道の卜部兼友の「円満虚無霊性」や平田篤胤の「霊性」を紹介している(『神道のスピリチュアリティ』第三楽章「崇高のメロディー」「「日本的霊性」の考察」3「霊性」の語の歴史的かつ現代的用法)。

 また鎌田氏は、「霊性」の概念として
 ①普遍志向性
 ②宗教性・通宗教性
 ③平等志向、人権意識とのからみ
 ④開放性、閉鎖性・偏りを打破できる言葉
 ⑤神性、仏性、心性、精神性との違いと、そうでないことの意味の地平
 ⑥曖昧さ・融通無碍・ぼやかし
 ⑦WHOの「健康」の定義への語の使用は無信仰、無神論者への強制・圧力になる?
 ⑧精神性のさらに深い次元、深層的自己への注視と関心と洞察(内省・内察)
 ⑨「霊性」の三要素、全体性・根源性・深化(業熟体)
を挙げている。

 私などは直観的に、大乗の「如来蔵」、空海の「菩提心」、ダライ・ラマの「慈悲」などが思い浮かぶが、改めて過去に学んだ宗教学や民俗学や文化人類学や日本文化論や日本思想史や日本仏教などから思いつくのは、日本人が永く共有してきた
 ①崇高なものや人知を超えたものに対する畏敬の念(神・仏・祈り)
 ②自然や自然現象への畏敬の念(霊異・神威・祀り・祭)
 ③天地自然の気・気配(ものの気)
 ④日本人同士が共感する情緒・志向
 ⑤日本人特有の美意識
 ⑥日本人特有の風俗
 ⑦地域コミュニティーの共同体意識
 ⑧祖先崇拝
 ⑨山岳信仰
 ⑩神仏習合
等々。具体的に言えば、
 『古事記』や『日本書紀』の神話であり、アマテラスであり、スサノオであり、天岩戸であり、神楽であり、伊勢であり、高千穂であり、玉依姫であり、ワダツミ(海神)であり、ニライカナイであり、山上他界であり、海上他界であり、熊野であり、擬死再生であり、八百万の神であり、山の神であり、田の神であり、水の神であり、ご神木であり、神奈備であり、払いであり、清めであり、山岳信仰であり、神仏習合であり、霊山であり、六根清浄であり、吉野であり、奥駆け道の宿や靡であり、大和の古仏であり、山の辺の道であり、野辺の地蔵であり、道祖神であり、稲荷であり、馬頭観音であり、神棚であり、仏壇であり、御札であり、位牌であり、歳徳神であり、恵方であり、おせちであり、松飾りであり、ますらおぶりであり、たおやめぶりであり、あはれであり、をかしであり、霊異であり、怨霊であり、祀りであり、お祭であり、松岡正剛さんがよく言う、あわせ・かさね、きそい・そろい、くずし・やつし、ずらし・ちらし、もじり・もどき・まぎれ、あそぶ・すさぶ、まねる・うつす、うがち・かけあい、寄せ・たとえ・見立て、といった「日本の方法」も「日本的霊性」ではないか。

 では、大拙師の言う「日本的霊性」とはどういうものかというと、

精神または心を物(物質)に対峙させた考えの中には、精神を物質に入れ、物質を精神に入れることが出来ない。精神と物質との奥に、今一つ何かを見なければならぬのである。二つのものが対峙する限り、矛盾・闘争・相剋・相殺などということは免れない。(略)二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るものがなくてはならぬ。これが霊性である
(『日本的霊性』緒言)

霊性の日本的なるものとは何か。自分の考えでは、浄土系思想と禅とが、もっとも純粋な姿で、それであるといいたいのである。それは何故かというに、理由は簡単である。浄土系も禅も仏教の一角を占めて居て、仏教は外来の宗教だから純粋に日本的な霊性の覚醒とその表現ではないと思われるかも知れない。が、自分は第一仏教をもって外来の宗教だとは考えないしたがって、禅も浄土系も外来性をもって居ない。なるほど仏教は欽明天皇時代に渡来をしたという。しかし渡来したのは、仏教的儀礼とその附属物であった。そのいわゆる渡来は、日本的霊性の喚起というものを伴って居ない。当時それを受け入れるについて闘争があったというが、それは政治性を持ったもので、日本的霊性そのものとは没交渉である。それから仏教は建築及びその外の芸術及び科学の方向に働きかけたというが、それも日本的霊性の問題ではなくて、大陸文化のそれぞれの方面の取り入れである。日本人の霊性はまだ動き出さぬ。
(略)神道各派がむしろ日本的霊性を伝えて居ると考えてもよかろうか。
が、神道にもまだ日本的霊性なるものが、その純粋性を顕わしていない
(前掲書)

というのである。

 すなわち、大拙師の言う「日本的霊性」とは禅と浄土信仰であり、「精神と物質との奥に、今一つ何かを見るもの」であり、「二つでなくて一つであり、また一つであってそのまま二つであるということを見るもの」なのである。師の「霊性」とは、禅問答のような精神と物質を同時に相即させる「二而不二」論であり、対立二項をアウフヘーベンした、しかも日本的でスピリチュアルな意識である。そして、仏教それ自体が外来(渡来)の宗教ではないから、仏教である浄土信仰と禅は純粋な「日本的霊性」だと言うのである。
 恐れ入る。仏教が外来の宗教ではないとどの日本仏教史に書いてあるのか、どの研究者の学説なのか。師によれば、中国や朝鮮半島から渡来したのは仏教の儀礼とその附属物であって「日本的霊性」を喚起した仏教ではなかったから、それは単なる大陸文化の受容に過ぎず、それを仏教の外来とは言わない、というのである。こんな詭弁を私は聞いたことがない。ずいぶん強引な理屈である。どんな日本仏教史を見ても、日本の仏教は欽明天皇の時代に朝鮮半島から伝わった外来宗教である。

 次いで、また師は言う。

奈良時代や平安時代の仏教は日本の上層生活と概念的に結び付いたに過ぎなかった禅はこれに反して鎌倉時代の武士生活の真只中に根を下した。そうして武士精神の奥底にあるものに培われて芽生えた。この芽は外来性のものではなくて、(禅は)日本武士の生活そのものから出たものである
(前掲書)

 師によれば「奈良時代や平安時代の仏教は日本の上層生活と概念的に結び付いたに過ぎない」のだ。師ほどの学人が客観的根拠も明かさずによくこのような極論・決めつけを口にするものである。奈良時代の聖武天皇の華厳国家(蓮華蔵世界=仏国土)は単なる上層生活者の政治ごっこだったのか。東大寺の「慮舎那仏」は万民豊楽・五穀豊穣を祈るシンボルではなかったか。東大寺「慮舎那仏」の勧進を行った行基は民衆に寄り添った遊行僧ではなかったか。光明皇后の「施薬院」「悲田院」は「無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる」ものではなかったか。最澄の東北進出は「まつろわぬ民」の救済ではなかったか。空海の「満濃池」「益田池」「大輪田の泊」の修復工事指導や庶民の子弟のための日本初の私立学校「綜芸種智院」は「方便究竟」の慈悲行ではなかったか。
 そもそも中央集権国家体制の時代に、仏教が上層階級と結びついて国家仏教的傾向になるのを、プロレタリア史観のような視座で「日本的霊性」を喚起しなかったなどと言いがかりをつけるのも稚拙な議論である。その時代にはその時代なりの「そうなるべくしてそうなった」歴史的社会発展的な理由がある。歴史学はそれを客観的に明らかにしているものであるが師はそういう基礎研究を知らないのか、見ていないのか、無視しているのか、いずれにしても師の極論は左翼新聞を読んでいるようである。師は社会主義支持だったと聞く。

 それに武士は源頼朝以降、鎌倉時代は権力の側で上層生活者ではないか。「(禅は)日本武士の生活そのものから出たものである」とは、よく言うものである。武士が「日本的霊性」の発露で禅に心を向けたのではなく、宮本武蔵の「剣禅一如」でもなく、山本常朝の「武士道とは、死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)でもなく、禅は茶道とともに武家政治の権威づけ(オーソライズ)のために利用されたのである。とくに師の臨済禅系はそうではないか。道元の曹洞宗こそ民衆の中に入っていった禅である。

 以下は、師の極論の極みである。

宗教は現世利益の祈りからは生まれぬ。国土安穏は霊性の生活とは直接の関係を持たぬ。
(『日本的霊性』第一篇鎌倉時代と日本的霊性)

 「霊性」と関係がないと、「現世利益」の祈りとてそこからは宗教が生まれないのだそうである。師には、新年の初詣も、家内安全・交通安全の祈願も、水天宮の腹帯も、天満宮の合格祈願も、結婚式の固めの杯も、産土神への子宝祈願も、身体健全の水垢離も、宗教ではないのである。民衆の生活に則した現世の祈りでさえ、師の目から見ると宗教ではないのだ。「人間の魂の奥から出るような叫び」ではないからと言いたいらしい。それはしかし、師の自惚れではないか。人々の「現世利益」の祈りを「人間の魂の奥から出るような叫び」ではないなどと早トチリするものではない。人々をうすっぺらにみるものではない。うわべだけを見て「現世利益」の深さを知らない人が「現世利益」を口にするものではない。

 私はその「現世利益」の現場にいる。「現世利益」は人々の深い苦悩のウラ返しだ。師の言う「念仏」こそ「来世往生」と言いながら「娑婆即浄土」を祈る「現世利益」ではないか。「来世往生」と言ったとて本音は「娑婆即浄土」であろう。この世こそ極楽であって欲しい、禅とて無常の世での心のやすらぎ願望、「現世利益」こそが民衆の本音なのである。師の宗教民俗学は皮相な独断論が多い。

第四節 歴史・文化・社会・民俗・宗教の主観的「歪曲」

 さらに、極論はあきることなく続く。独断と偏見の連続である。

日本的霊性は鎌倉時代に始めて自覚の域に達した。そしてそれは法然と親鸞の宗教経験の上に現れたその特徴は大地性、一文不知性・単刀直入性・具体的真実性・即生活事実性などいうところに在ることは、既述のごとくである。
(『日本的霊性』第五篇金剛経の禅)

「日本的霊性は鎌倉時代に始めて自覚の域に達した。そしてそれは法然と親鸞の宗教経験の上に現れた」。「???・・・」。恐縮ながら、よくこんな日本思想史・日本精神史があったものである。この決めつけ方によれば、鎌倉時代以前の「日本的霊性」は「自覚の域に達していなかった」ことになり、同時に同じ鎌倉時代でも、法然・親鸞の宗教経験以外は自覚の域に達していないのである。

 何故に師はこんな極論を平気で言うのだろうか。『日本的霊性』、第一篇「鎌倉時代と日本的霊性」「3 大地性」の文に、その答えのヒントのようなものが私には見える。

平安人は自然の美しさと哀れさを感じたが、大地に対しての努力、親しみ、安心を知らなかった。随って大地の限りなき愛、その包容性、何事も許してくれる母性に触れ得なかった
(略)平安人は美しき女を愛して抱きしめたが、死んだ子をも抱きとる慈母を忘れた

宗教は親しく大地の上に起臥する人間――すなわち農民の中から出るときにもっとも真実性を有つ。大宮人は大地を知らぬ、知り能わぬ。彼らの大地は観念である。歌の上、物語の上でのみ触れられる影法師である。それ故、平安の情緒は宗教とかなりに隔たりのあるものである。仏教者という人々の間でも、宗教は出世の媒介にこそなれ、自分の心の奥へ分け入る枝折にはならなかった南都北嶺の仏教、いずれも人間的真実性を欠いている。直接に大地に触れていないからである。

都の貴族たち、その後にぶら下がる僧侶たちは大地と没交渉の生活を送りつづけた。彼らの風雅も学問も、幽玄も優美も、空中の楼閣で、本当の生命、真実の生活とかけ離れたものであった。平安時代を通じて一人の霊的存在、宗教的人格と見るべき人の出て来なかったのは、まさにしかるべきところである。弘法大師のごとき、伝教大師のごときといえども、なお大地との接触が十分でない。(略)彼らは貴族文化の産物である

 平安人が「大地に対しての努力、親しみ、安心を知らなかった」とは、どうやって調べたのか、どんなフィールドワークをしたのか、それとも歴史資料や古文献の何に書いてあるのか、そういうことを師はいっさい断らない。記述が独断的で決めつけがきついのである。これでは「大拙師、見てきたようなウソを言い」と言われても仕方ない。

「大地の限りなき愛、その包容性、何事も許してくれる母性に触れ得なかった」
「平安人は美しき女を愛して抱きしめたが、死んだ子をも抱きとる慈母を忘れた」
「都の貴族たち、その後にぶら下がる僧侶たちは、大地と没交渉の生活を送りつづけた」
「平安時代を通じて一人の霊的存在、宗教的人格と見るべき人の出て来なかった」
「弘法大師のごとき、伝教大師のごときといえども、なお大地との接触が十分でない」
「彼らは貴族文化の産物である」

 こうなると言いたい放題の言いがかり。大拙師とはこういう人だったか。独断と偏見がここまで来ると実に排他的でさえある。私は一介の市井の草学道人に過ぎないが、この年齢になるまで、こんな乱暴なことを言う学識者や仏教者に出会ったことがない。

 ここまで言われると、いささか感情が入るかもしれないが、私も一言呈しておきたくなる。
 ズバリ、師がベタぼめする法然も親鸞も、まず比叡山の厳格な四宗(円・戒・禅・密)兼学の落第生ではないか。「無常観」漂う末世のペシミズムに迎合・便乗し、伝教大師最澄の教えの第一番である「円」(『法華経』)を棄て、最澄が最もこだわった「戒」(「大乗戒」=「梵網戒」)を捨て、次に大事な「禅」(『摩訶止観』)を棄て、慈覚大師円仁が艱難辛苦の末に唐からもたらした「密」(「台密」)を棄て、「禅」の一つである「常行三昧」の一部に過ぎない「念仏」だけを「選択」し、比叡の山からドロップアウトしたのである。しかもその「念仏」(=「南無阿弥陀仏」の称名念仏)は、彼らの内面からオリジナルに創発した内発的な修行・信仰ではなく、もともと中国浄土教を大成した善導のコピーであり、比叡山の過酷な「常行三昧」の一部でしかない。

 彼らがなぜ比叡山の落第生かと言えば、四宗兼学(総合仏教)のユニヴァーシティーに学びながら、「円」「戒」「禅」「密」という必修科目のほぼ全部で単位を落し、わずかに「禅」(「常行三昧」)の一部の「念仏」だけが単位修得できたということである。彼らが「易行門」を選んだことをよく「選択(せんちゃく)」などと言うが、落第生にはこれくらいしかできなかったのである。
 偶々、時代は「法滅尽」「現世穢土」「欣求来世」「無常観」「もののあわれ」の末法の世だった。彼らはこの時勢・時流をたくみに利用し、「一文不知」(無学無知・愚鈍)にして貧しく、現世の生死辛苦にあえぐ武士や農民たちに(無学無知をいいことに)「厭世観」や「現世逃避」を煽ったのである。幕府から反社会的勢力・反社会的行動として弾圧を受けたのは、彼らの信仰・活動が当時の朝廷から見ると常軌を逸していた(今で言う、カルト)からで、「日本的霊性」の自覚などという代物ではなかった。私に言わせれば、彼ら自身こそが「一文不知」(無学・愚鈍)の落第生であり、社会の秩序など無関係のアナーキストだった。その「一文不知性」が「日本的霊性」の特徴だと言うなら絶妙な皮肉である。そんな二人をベタぼめする師こそ、よほど日本の仏教史に「一文不知」なのである。

 私が強調しておきたいことは、彼らにはわかっていなかっただろうが、インドから中国を経て釈尊にはじまる仏教がその思想史の発展順序のほぼそのまま日本に伝えられ、最澄と空海によって大乗仏教(「如来蔵」「真如」「法身」)から密教(「菩提心」「ア字」「法身」)へとステージがステップアップしたにもかかわらず、彼らの比叡山造反によって大乗仏教⇒密教という仏教思想史の本流を、密教⇒大乗と逆流させてしまったということである。言い方を換えれば、インド・中国・日本と「三国伝灯」の国際的な総合仏教だった仏教を、この日本でしか通用しないローカルな単科仏教にしてしまった、ということである。大拙師はこのことを「日本的霊性」の初めての自覚と言うのだ。
 師の仏教思想史や日本史や日本文化史や民俗学は、論述の際その客観的根拠をまったく明かさないのであるが、どこでどう学んだのであろう。私には自分勝手な思い込みや想像や憶測や推定や独断や偏見で書かれているとしか思えない。

 「日本的霊性」などと大きく出ながら、その特徴はと言えば大地性、一文不知性・単刀直入性・具体的真実性・即生活事実性なのだそうである。どうと言うことはない、何だかみな浄土信仰のことではないか。師の言う「日本的霊性」とはきっと浄土信仰のことなのである。日本仏教の一部でしかない浄土信仰を誇大宣伝して「日本的霊性」に格上げしているようなものである。
 平安時代を「大地」の視座で見るのはご自由であるが、だからといって平安時代を貴族文化の歌や物語で片づける、最澄や空海と言った日本仏教の偉人を「貴族文化の産物」だと言う。「貴族文化の産物」がわざわざ危険な東シナ海を渡って唐に留学するわけがない。そもそも師は最澄の仏教、空海の仏法をどこまでご存知なのか。「如来蔵」まで行きながら井筒氏のように空海に向わなかったではないか。この偏狭な「日本的霊性」、師は労農主義、マルクスファンタジーのようである。

 あれまで言われれば、師の「大地性」とやらの底意が見えてきた。
師は「大地性」を持ち出して何を言いたいのかと言えば、額に汗して大地を耕す農民の間に広まった法然・親鸞こそが「日本的霊性」の自覚であり、平安の観念的な貴族文化の産物である空海も最澄も「日本的霊性」の自覚ではない、大地との接触が十分じゃないから人間的真実性も欠いている、なのだ。
 平安時代には平安時代なりの「そうなるべくしてそうなったワケ」があり、貴族には貴族の、最澄には最澄の、空海には空海の「ワケ」がある。時代や人物を単純に「大地性」だけの主観的な視座で見ること自体、歴史でもなければ文化でもない。

 朝廷貴族の雄・藤原家が最も栄誉栄華を誇った時代、その当主だった藤原頼通は宇治の平等院(真言密教系)に「鳳凰堂」(阿弥陀堂)を創建し阿弥陀如来を祀った。父道長の別荘だった密教系の寺「宇治殿」を浄土系にしたのである。朝廷貴族と言えども、大拙師が言うように、「彼らの風雅も学問も、幽玄も優美も、空中の楼閣で、本当の生命、真実の生活とかけ離れたもの」ではなく、権謀術数が渦巻き立身出世と失脚没落が裏と表の権力者は常に明日もわからぬ緊張感にさいなまれ、時には権門の悲哀、時には怨霊に悩み、心に深いキズをもつことさえある。権力の座にあればこその苦悩であり、民衆にはわからない。平安貴族が「来世往生」の阿弥陀仏にすがり、貴族の雄・藤原頼通が浄土信仰のシンボルである「鳳凰堂」(阿弥陀堂)を建立したのも、風雅でもなく学問でもなく、幽玄でもなく優美でもなく、空中の楼閣でもなく、本当の生命、真実の生活に基いた深刻な「日本的霊性」の自覚だった。
 藤原道長・頼通の親子は、吉野の金峯山寺に詣でて熊野参詣の先駆けとなり、道長は高野山にも登っている。天皇・上皇となって権力をほしいままにした白河院は熊野・高野山・吉野に入っている。これらはみな、「山上他界」(浄土経験)の信仰であり、とくに熊野は熊野本宮に参籠して現世を死んだこととし、生れ替って現世(=都)に帰る「擬死再生」の信仰である。いずれも平安京からはるかに離れた三つの「野」。日本を代表する古代宗教のミステリーゾーンへの渡御である。風雅や学問や、幽玄や優美でできるものではない。これこそが「日本的霊性」の自覚に基いた巡礼なのだが、大拙師はこういうことには目を向けない。貴族とて人間、権力だけで生きているわけではない。

 そう言えば聞いたことがある。一向一揆(百姓一揆)のあった真宗王国の加賀で生まれ育った師や西田には、天皇や朝廷と親和関係にあった空海(真言宗)は忌避の対象だ、という話である。そう、師は一向一揆側の農民に好意的であり、権力者側の朝廷・貴族には敵対的なのだ。感情的で学問以前の話だ。師の極論のもとは北陸のネイティブな風土ではないか。階級差別的なコンプレックスが心の奥に潜在しているのではないか。
 先にも触れたが、師が言う「日本的霊性」の特徴とは浄土信仰である。こんなことを言った宗教研究者・民俗学者・文化人類学者を私は知らない。正直こんなことは、日本全体の「霊性」として普遍的な特徴と言えない。しかしこの妙な特徴のキーワードは無学無知の武士や農民である。それで大地性、一文不知性・単刀直入性・具体的真実性・即生活事実性も説明がつく。

 「大地性」と言えば、私なら「母なる大地」「母型」「分母性」「母語」「母国」「母源」と「母性」「慈愛」「産む」「育てる」「無償の愛」「慈悲」「慈母」「母神」の二類を思い浮かべるが、師の言う「大地性」とは「母性」「慈母性」だそうで(前掲の引用)、厳しい気候風土や貧しさに耐えて田を耕し畑をおこす農民に浄土信仰が広まり、生活苦にあえぐ農民の傷心を「念仏」さえすれば弥陀(「母性」「慈母性」)が「来世往生」で救うらしい。こんなことが「日本的霊性」の特徴だと、要するに大地が大地の恵みを生み育てるように、法然・親鸞は「慈母」のように「慈悲深い」、その「慈悲深さ」こそが「日本的霊性」の自覚だとでも言いたいのであろう。我田引水の稚拙な論である。奈良時代や平安時代の学僧や高僧とて「慈悲」と民衆救済を無為無策にしていた人はいなかった。
 「一文不知性」とは、今も述べたように、「一文不知」(無学無知)の農民に浄土信仰が受け容れられたこと、無学無知で文章が読めなくても私心を捨てて愚鈍になって「念仏」すれば、苦の娑婆を離れて「来世往生」できること、を言いたいのだろう。
 単刀直入性・具体的真実性・即生活事実性も、武士・農民の人間性回復と「称名念仏」「南無阿弥陀仏」「他力本願」「現世穢土」「来世往生」「極楽往生」を想定すれば、推して知るべしである。

 要するに、大拙師の言う「日本的霊性」とは、阿弥陀如来の「本願」である「いかなる衆生でも救ってやまない大慈悲」が「大地」に勤しむ「農民」の心に生活信仰として受容され、禅の「無」(否定=現実否定)が「大地」に根を下した「無学」の「武士」の心の奥の「大地の霊」に受容され、それが鎌倉時代になって自覚的になった、それも「北国」(師のネイティブランド北陸)で、ということなのである。師の視座には東北も北海道もない。「北国」の武士と農民(真宗門徒)だけに弥陀の大悲が注いでいるのだ。

無縁の大悲が善悪を超越して衆生の上に光被してくる所以を、もっとも大胆にもっとも明白に闡明してあるのは、法然―親鸞の他力思想である。
(『日本的霊性』緒言)

 「大慈悲」などというものは、阿弥陀如来の専売特許ではない。観世音菩薩は「慈悲」の化身であり、不動明王の「忿怒」も「慈悲」の顕現であり、仏教のホトケで「慈悲」の徳をもたないものはない。
 なぜ鎌倉か、という時代背景でも、ほとんどの歴史家や仏教学者が言う「末世・末法」を無視し、

「物語」や「日記」にそんな言葉(「末世))があっても、それは読書をする人の常套語である。特に何かいうと涙ばかり出して居る平安朝の弱虫公卿の泣き言に外ならぬ。浄土思想がこんなことで、一般人の間に拡がり行き得るものとは考えられぬ(今文献によりて考証することを避けるが)。

彼ら(平安期の一般人)は仏教を一種の娯楽と心得た、坊さんも多くはそれ以上を彼らに要求しなかった。

平安朝の仏教は観念の極みに立って居た。それで貴族文化に追随して遊戯気分を離れ得なかった。
(『日本的霊性』第一篇鎌倉時代と日本的霊性)

と言って取りつく島もない。そして、客観的根拠も論証もなく、

鎌倉時代になって、日本人は本当に宗教すなわち霊性の生活に目覚めたといえる。
日本人は、それまでは霊性の世界というものを自覚しなかった。鎌倉時代は実に宗教思想的に見て、日本の精神史に前後比類なき光景を現出した。
(前掲書)

という始末である。

 ところで、あの一向一揆は農民が内発的自覚的に考え展開した本当の信仰運動だっただろうか。あれは、口に「南無阿弥陀仏」を唱えていても真宗の政治的傾向の強い人たちに扇動され動員された「貧しさからの開放」運動ではなかったか。「南無阿弥陀仏」は単なる共振的手段の合言葉(シュプレヒコール)で、「南無阿弥陀仏」の信仰に偽装された革命歌「インターナショナル」ではなかったか。
 鎌倉時代の農民が阿弥陀信仰に心を寄せたのは、この世に「救い」「やすらぎ」「幸せ」を期待できない「世も末」の時代、過酷な労働と終りのない貧しさのなかでの「心の開放」「救い」のためだったのであり、「土」が農民に念仏をさせたのではなく、「貧しさ」「生活苦」「現実(この世)のあきらめ」が「南無阿弥陀仏」なのである。
 師は「妙好人」を浄土信仰の模範例にしているが、「食う」ことに窮々としていた日本の農村社会の実態とはちがう。「南無阿弥陀仏」は「大地」から出てきたのではない。その「大地」をまじめに耕しても報われない「貧しさ」「生活苦」「現実(この世)のあきらめ」から来たのである。

第五節 「弘法大師のごとき」「彼らは貴族文化の産物」という「歪曲」への反論

平安時代を通じて一人の霊的存在、宗教的人格と見るべき人の出て来なかったのは、まさにしかるべきところである。弘法大師のごとき、伝教大師のごときといえどもなお大地との接触が十分でない。(略)彼らは貴族文化の産物である
(『日本的霊性』第一篇鎌倉時代と日本的霊性)

 師の目には、平安時代に「一人の霊的存在、宗教的人格と見るべき人の出て来なかった」ようである。師はどこを見ているのだろう。最澄も空海も、霊的存在でもなければ宗教的人格でもないらしい。法然や親鸞よりも「日本的霊性」では劣るとでも言いたいのだろうか。こうなるともう何をかいわんや、である。『日本的霊性』を名著だとばかり思ってきた私の目は節穴だらけだった。名著とばかり思ってきた師の『大乗仏教概論』も今は疑問ばかりで、若い時に一度熟読して好印象を持った本が、老境になって読んだらとんだ食わせ物だった。
 岩波文庫本『日本的霊性』のブックカバーに「現代仏教哲学の頂点をなす著作」と書かれている。誰がこんなキャッチコピーを考えたのか、不見識である。

 ちなみに弘法大師空海が創案した密教は、インドに興った密教そのものでもなく、留学先の長安で師の恵果和尚から伝授された密教そのものでもない。空海が帰国後に多くの経論その他の典籍に論拠を求めつつ日本の「母なる大地」=風土や精神性(霊性)に合わせて日本化した密教である。そしてその中心にビッグマザー(「母神」)の大日如来をもってきたのである。「大地性」とはこういうことではないか。

 空海の密教は、師の言う「貴族文化の産物」ではない。「直接大地に触れていない」のでもない。「人間的真実性に欠ける」のでもない。農民の一向一揆を経験した真宗門徒の風土の中で生れ育った師の目には、空海や真言宗は天皇や朝廷や国家といったエスタブリッシュメントと癒着した非民衆・非農民の宗教だという偏見があるのか、師のような学識者でもこんな極論を言うものかと唖然とする。

 空海は国家仏教の総本山である東大寺の別当にまで昇りつめたが、天皇や朝廷との関係に自ら近づいたのではない。その端緒は、唐から帰国後二年間留め置かれた筑紫の観世音寺を離れ、大和の槇尾山寺を経て洛北の高雄山寺にいたところ、ある日嵯峨天皇の使いがたずねてきて唐から持ち帰った漢詩や書に関する資料の借用を申し出られたことにはじまる。別に高位高官をねらったわけではなく、世間的な栄達・貴族文化への道は奈良の大学寮を出奔した時にすでに捨てていた。晩年に平安京から遠く離れた紀伊の山奥・高野山を終生の地として選んだのも、自らの法城を都の権謀術数から遠ざけたいためである。
 空海は朝廷貴族の雄・藤原氏や「南都」の寺々とも親密な関係にあったが、自分の密教を国家鎮護の分母とし、東寺(当時の迎賓館)に「立体マンダラ」を造顕して国家安穏・万民豊楽を祈る道場にしたのも、華厳に代る密厳国土(仏国土)建設のためだった。それは師の恵果和尚の願望でもあった。空海を「貴族文化の産物」だなどという師の暴言は、師がいかに空海を知らないかの証拠である。この言には空海への無理解を越えて悪意さえ感じる。

 空海はそのような立場にいても、故郷讃岐の田畑を潤す水利の池「満濃池」の補強改修に当っている。また、大和の灌漑用水池「益田池」の修築にも協力している。今の神戸港のもとになる「大輪田の泊」の港湾改修も現場指導を行っている。すべて農民・漁民の心の大地にふれ、直接天地にふれている。だから、師も聞いたことがあるであろう「南無大師遍照金剛」は、日本全国津々浦々に広まった大地の声である。四国八十八ヶ所遍路を師は知らないはずはない。
 空海や真言密教に「人間的真実性が欠けている」とは随分ないいがかりである。空海の密教は畢竟、衆生救済の論理だった(拙著『空海の総合仏教学』最終章、十一)。

 空海はなぜ、成仏の速さ(「速疾成仏」)にこだわったのか。
 「善財童子」のように永遠に近い長い時間をかけた修行の果てのサトリでは「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、「法身」に人格性を与え説法させたのか。
 真理を身体とし真理そのものとして実在するだけの毘盧舎那では「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、仏教思想史の常識を破り「果分可説」や「声字実相」に踏み込んだのか。
 サトリ(「果分」)の内容が「言亡慮絶」でコトバにできないのであれば「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、「曼荼羅」を活用したのか。
 コトバや文字で難しい教理が理解できない「衆生」には絵図や立体曼荼羅で視覚化しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、「三密平等」を言ったのか。
 「法身」如来と「凡夫」とが、身と口と意の「三密」で同調(入我我入)しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、「十住心」を説いて「凡夫」を「密教」の世界に摂受したのか。
 「凡夫」に本有「菩提心」(「仏性」)を見て「密教」に受容しなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ、天皇や朝廷貴族と交わったのか。
 現実的に民衆(「凡夫」)の苦楽は「王法」次第であり、「仏法」にかなう「王法」でなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

 空海はなぜ灌漑土木や学校教育の社会事業を行ったのか。
 民衆の世俗の苦難を「仏法」にかなった「世法」(世俗の術)で救わなければ「衆生」済度が現実にならないのである。

 こうしてみると、空海がそれまでの仏教の常識を破り定理を超えたわけは、畢竟「衆生」済度にあったと言っても過言ではない。
 空海の密教は究極「生仏一如」・「凡聖不二」であり、「凡夫・衆生」と「法身」大日とが「入我我入」して一体化(主客同一)することにある。それが成仏であり「衆生」済度である。その代表を「金剛薩?」が担った。空海の心中にはいつも「三句の法門」(『大日経』)による「衆生」済度(「究竟方便」)が秘せられていて、それがそれまでの仏教定理を超えるモチベーションではなかったか。大拙師はここまで空海を学んでいただろうか。

第六節 「空海を避けた」大拙と「空海と向い合った」井筒俊彦

 以上、見てきたように、一を聞いて十を知るではないが、いくつか例を挙げて大拙師の「日本的霊性」の「ミスリード」(「歪曲」)を見てきた。
 この「ミスリード」(「歪曲」)は現代日本を代表する宗教学者・民俗学者で哲学者の鎌田東二氏が取り上げて批判し、

鈴木の知的判断や断定には相当な偏りがあったというべきであろう。
鈴木大拙の平田批判と神道批判は、一面的であり、誤解と曲解に満ち、きわめて煽情的かつイデオロギー的であったといわねばなるまい。
神道認識や平田認識にかなりな偏見と独断があることが問題だと思う。
平田篤胤自身の著作をじっくりと研究した様子はうかがえないことからしても、その見解と批判は一面的であり、皮相であると言わねばならない。
(『神道のスピリチュアリティ』第3楽章崇高のメロディー、2鈴木大拙『日本の霊性化』における神道および国学批判)

と言い、さらに

神道を含め、先行するさまざまな神道家や研究者がその問題についてどういうことを考え議論してきたかをきちんと押えず自分の立場、自分の見方を強引に押しつける形で論を展開している。それでは歴史認識にせよ、精神史のものの見方にせよ、偏りがあるのではないか。
(「「日本的霊性」を問い直す」二〇〇六、第十五回平和公共哲学研究会「スピリチュアリティと平和3 ―神道と靖国問題」での発言)

と言っている。

 鈴木大拙師の代表作と言われる『日本的霊性』は、第二篇「日本的霊性の顕現」、第三篇「法然上人と念仏称名」、第四編「妙好人」と、浄土信仰の極論・「歪曲」が続き、第五篇が例の「金剛経」の論理と禅を綴る「金剛経の禅」である。最後まで鎌田氏が言うように「その見解と批判は一面的であり、皮相」である。

 大拙師が『日本的霊性』を書いたのは昭和十九年(一九四四)。敗色濃い戦争末期である。師があまり聞き慣れない「日本的霊性」という言葉を持ち出して言わんとしたことは、戦争イデオロギーの「日本精神」「大日本主義」への批判だと言われている。戦争反対を容易に口にできない時勢に「日本的」を敢えて言い、聞き慣れない「霊性」を持ち出したのである。「霊性」とは軍部や官憲の目を避けるためであったかもしれない。

その頃は軍閥の圧力でむやみに押さえつけられて居たので、これではならぬ、日本の将来はそのようなものであってはならぬと考えた。
(略)すなわち国家主義や国家神道などというもの、これはわが国のこれからのよって立つべきところのものではないとの感じも強く出た。それやこれやの考えから、日本的霊性なるものを見つけて、それで世界における日本真の姿を映し出すことの必要を痛感した。
(『日本的霊性』新刊に序す)

 師はこの『日本的霊性』のあとも『霊性的日本の建設』や『日本の霊性化』を公表し、神道(とくに平田神道)を言葉を極めて口撃し軍国主義や国家主義という戦前の体制を批判した。当時駐日アメリカ大使だったジョセフ・グルーが「戦争の原因は国家神道への狂信だった」と述懐したのは、大拙師の影響だったと言われている。ただしかし、大拙師は一方で植民地政策に反対しなかった、戦争に協力したという批判もされた。だがそのことは、本論の守備範囲ではないのでここではふれない。
 『日本的霊性』がそうしたやむにやまれぬ理由で書かれた事情があるにせよ、師の「日本的霊性」の著述はあまりに偏向的で、学人らしくない独断と極論に満ちた主観的自説であることにちがいはない。

 大拙師は、戦後八〇才を越えてから『神秘主義』(英文)を書いた。神秘主義といえば、日本人の仏教研究者なら空海の密教、あるいはその後の真言密教をまず言うのだが、師の「神秘主義」には空海はいなかった。師の「神秘主義」は、「宗教は神秘体験」で禅と真宗とキリスト教神秘主義を言うようである。従ってそこに登場するのは空海ではなく、浄土系でいう「妙好人」とかエックハルトなどである。
 師は「如来蔵」(『大乗起信論』)や「事事無礙」(華厳)まで行きながら、それを密教のレベルで集大成をした空海に行かなかった。神秘主義や心霊学やカルトの研究者であった夫人のベアトリス・レインに空海を祖とする真言密教をゆだねたと言われているが、夫人に空海の密教や真言密教に関する著書や論述があるのを寡聞にして聞いたことがない。
 それはそれとして、神秘主義としての密教を心霊学やカルトも研究する夫人にゆだねたということは、師の視座には法然・親鸞しかなく、「如来蔵」のすぐ向こうにいたはずの空海は無視を決め込んだに相違ない。師の本音はきっと「彼ら(最澄・空海)は貴族文化の産物」であり、その上「如来蔵」の向こうにいる空海は考えたくなかったのであろう。

 師が三十七才の時に書いた『大乗仏教概論』(英文)は、「如来蔵」(『大乗起信論』)の思想を中心にして大乗「空」の展開諸相を西欧に紹介したものだったが、ヨーロッパの仏教学者、特にベルギーの仏教学者でヨーロッパの仏教学を代表するルイ・ドゥ・ラ・ヴァレ・プサン氏に、日本の仏教の一宗派である真言宗の教理を述べたものだ(大乗の客観的論述ではない)と激しく批判され、その後師は大乗仏教を書かなくなり専ら禅と法然・親鸞に傾斜したと言われている(『大拙』講談社)。
 プサン氏に激しく批判されるということは、師にとって師の仏教研究が全否定されたに等しく、余程こたえたにちがいない。プサン氏と言えば、私たちはインド仏教中観派の学匠・月称(チャンドラ・キールティー)の『プラサンナ・パダー(『浄明句論』)』(龍樹『中論』の注釈)の原典でお世話になっているが、サンスクリット原典をはじめとする文献考証など多岐にわたって多大な学績を残している仏教研究の巨匠である。

 師の『大乗仏教概論』はおそらく、文献学的には中国で編纂された一種の「偽経」とも言われる『大乗起信論』(その現代語訳をした宇井伯壽博士はサンスクリット原本の存在の可能性を言い、漢訳者の菩提流支かその系統の可能性を言う説もある)を取り上げ、大乗の「空」が「仏性」から「如来蔵」(如来としての種子を子宮に内蔵するように、心の深層の「アーラヤ識」に宿す)に発展して、「無」のベクトルのほかに「有」のベクトルももつ一元的二面性に例の禅的な「主客不二」の「頓知」(一つが二つ、二つが一つ)でふれたのであろう。
 それは空海の密教の領域にも重なり、プサン氏に真言密教だと批判されたのではないか。プサン氏がどの程度『大日経』『金剛頂経』の密教や空海の密教を知っていたかはわからないが、空海を知らない師は「如来蔵」思想が空海によって「菩提心」へと昇華されたことさえ知らなかったに違いないので、プサン氏の批判の意味もわからなかったのかも知れない。ともあれ、大乗に挫折したのである。その後の法然・親鸞(主客同一の浄土信仰一元論)への傾斜は大乗挫折の意趣返しではなかったか。

 西田も大拙師に勧められて『大乗起信論』を読み「如来蔵」を知っていながら、空海にはふれなかった。西田は大拙師に合わせたのだろう。空海には、「如来蔵」「真如」「法身」もあり、「頓悟」禅も念仏も超えた「三密加持」「即身成仏」(「速疾成仏」)があり、スピノザの「実体」一元も、ライプニッツの「モナド」も、ヘーゲルの「弁証法」も、エックハルトの「無の神性」もあり、西田の「絶対矛盾的自己同一」「逆対応」もあったのにである。

 井筒俊彦氏は、大拙師の空海回避をフォローするかのように、「如来蔵」(『大乗起信論』)から空海に正面から向き合った。
 井筒氏は、小論ながら「意味分節理論と空海ー真言密教の言語哲学的可能性を探るー」(『意味の深みへ』岩波文庫、7)を書き、そのなかで空海の「法身説法」「果分可説」つまり「法身」大日如来の「コトバ」(真言)から存在が発生する(その象徴が、サンスクリット語のアルファベットの第一文字であり、発声の最初の「ア」(「阿」字本不生))という言語哲学は、イスラーム哲学のファヅル・ッ・ラーの文字神秘主義やユダヤ教のカッパーラー神秘主義とともに「存在はコトバである」という命題において共鳴するもので、東洋哲学全体のなかでは空海の思想は決して孤立した立場ではなく、ネオ・プラトニズム以来〈コトバを超えた体験(コトバの脱落・言語道断)〉を伝統とする西洋神秘主義も躊躇するコトバの深秘学に踏み入っていた、と空海の言語哲学の真価に迫っている。

旧来の思想の構造解体が云々され、新しい知のパラダイム、新しい「エピステーメー」が、全世界的に、切実な要求となりつつある今日、我々東洋人も、己の思想的過去を現代的思想コンテクストの現場に引き出して、そこに、その未来的可能性探ってみようとする努力を、少なくとも試みるべきではないだろうか。私がこれから語ろうとしている真言密教も、そのような知的操作に値する、あるいは、それを必要とする、重要な東洋的文化財の一つである。
真言密教をいま言ったような方向性において捉え、それを現代的思想のテクスチュアのなかに織り込んだ場合、それは一体どのような意義を帯びてくるであろうか。この点で先ず注意されなければならないことは、この思想体系の全体を支配する根源的に言語哲学的な性格である。勿論、真言密教なるものは、それ自体、実に複雑な構成をもつ、多重多層、かつ多面的な複合体であって、言語の一言をもって一切を覆い尽せるようなものではない。だが、真言密教は、要するに真言密教である。「真言」(まことのコトバ)という名称の字義どおりの意味が、それのコトバの哲学としての性格を端的に表明している。この意味ではコトバは決して真言密教の一側面ではない。コトバが全体の中心軸であり、根柢であり、根源であるような一つの特異な東洋的宗教哲学として考えることができる―あるいは、少なくともそう考えなければならない―思想体系であるのではないか、と私は思う。

 鈴木大拙師は、「東洋の叡智」と言われる「知」の異才ながら、上記のように空海を見ていなかった。師に見えていた空海はきっと、嵯峨天皇のそばに侍り、平安貴族と交わり、鎮護国家・雨乞い(「現世利益」)の祈祷を行い、「淫祠邪教」の真言密教を広め、儀礼と密呪に偏し、民衆の「日本的霊性」とは没交渉の、「貴族文化の産物」であったろう。その師の「ミスリード」を後継者と目される井筒氏が正したのである。

 師が参考にしたのは、『大乗起信論』ほか、
〇ポール・ケーラス(作家・仏教研究、『仏陀の福音』『因果の小車』、雑誌『モニスト』、カントからヘーゲルへ、ショーペンハウエルからニーチェへ)。
〇エマヌエル・スウェーデンボルグ(博物学・神学・神秘主義思想、『天界と地獄』『新エルサレムとその教説』『神智と神愛』(「如来蔵」)『神慮論』『天界の秘義』、西田にも紹介するが西田はさしたる反応をしなかった?)。
〇ウィリアム・ジェームズ(哲学・心理学、『根本的経験論』『宗教的経験の諸相』、西田は『根本的経験論』に説かれる「純粋経験の世界」から『善の研究』冒頭の「純粋経験」を、『宗教的経験の諸相』を参考に『善の研究』最終章「宗教」を書いた。これもアメリカにいた大拙が西田に教えた。
〇エックハルト(神秘主義思想、「砂漠」)。
〇ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(神智学の創始者、秘密仏教、『沈黙の声』『霊智学解説』『ウトパーラ』)。
〇エルンスト・マッハ(物理学・科学史・哲学、『感覚の分析』)。
〇エルンスト・ヘッケル(生物学)。
〇チャールズ・サンダース・バース(哲学・論理学・数学・科学、哲学プラグマティズム)。
〇アルバート・J・エドマンズ(スウェーデンボルグ神学・心霊学)。
〇メイベル・コリンズ(『道の光』『蓮華の書』)。
で、大きな影響を受けている。

 大拙師の禅は、ルックイースト系のアメリカ人の関心を呼び、全米の各地で禅の道場が開設され、今もけっこうな数の修行者が道場に通うまでになった。
 しかし、師がアメリカで火を灯した禅も、一時アメリカの若者の厭世気分や現実逃避に一役買った。アメリカで禅が脚光を浴びるようになったのは、あのヒッピーとビートルズの時代。泥沼のベトナム戦争に行き詰まり、多くの若い兵士が次々と無言で母国に帰還していた時、大学のキャンパスでは、ベトナム戦争に反対し、ビートルズメンバーのように髪を長々と伸ばし、「フリー(ダム)」を口々に言い、マリファナやLSDを吸い、恋人たちは白昼堂々とキャンパスや公園の芝生に寝転んで抱き合い、その一部はヨーガ(日本で今行われている健康志向のヨガは似て非なるもの)に救いを求めてインドのリシケーシュに行き、一部は全米各地の禅道場の門を叩いた。マリファナやLSDを吸う代りに、禅によって現実逃避の「フリー」を手にしたかったのである。

むすび

①鈴木大拙師の「即非の論理」(自己否定即肯定)は、『金剛般若経』の経文の「誤読」による論理の「飛躍」で成立しない。このことはすでに、私が指摘するまでもなく、日本を代表する思想家・仏教研究者によって批判されている。従って、『日本的霊性』の第五篇「金剛経の禅」に収録されている「二、般若即非の論理」のうち特に「5、般若の論理」は全面的に「非」である。
 この「即非の論理」の不成立に伴い、この論理を「受け売り」した西田幾多郎氏の「絶対矛盾的自己同一」も成り立たない。
 大拙師は、おそらく禅門(「看話禅」、臨済禅系)の倣いに従って「誤読」したのであろう。しかし、「仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是名般若波羅蜜」程度の「般若経」系の経文の文意をまずは仏教学的に正確に読み取って、それから論理化するならわかるが、あれほどの人が(頭から仏教学的解釈を避けていて、あるいは仏教学的な読み取り方を学んでいなくて)経文の文型の方に目を取られたのか、直観が働いたのか、それを定式化した論理にした。師は『金剛般若経』の経文解読も般若思想の理解もできていたのか疑わしい。ともあれ、大拙師は、思索家・思想家として、『金剛般若経』の文意に関係なく、その文意やそこで言われている般若思想を「誤読」して「即非の論理」を展開したのである。

②「AはAではない、故にAである」(自己否定即肯定)を堂々と「般若論理」だとか「般若思想」だと言っているが、般若思想すなわち般若系経典で言う大乗の「空」は、『般若心経』の「無」のくり返しでわかるように、「無自性」「無実体」のこと。すなわちすべての事物・事象の「自性」「実体」(それらをあらしめている個体性)の「否定」であって「自己否定即肯定」ではない。第一、事物・事象が「自己否定」することなど般若経典には書かれていない。「空」が「否定」と「肯定」を同時的に可能になるのは「如来蔵」思想になってからである。師は仏教学のイロハも知らないのに等しい。

③大拙師の「日本的霊性」は、一言にして言えば、「大地」に根を下し、貧しく慎ましい生活にもくじけず、文字すら読めない武士や農民でも、愚直に「他力本願」を信じ、日々私心なくひたすら念仏して阿弥陀如来に絶対帰依すること。あるいはイザという時は私心なく主君の命に従って戦場に赴き、命を惜しまず敵と闘い、運尽きれば潔く自決する、武士の禅的な心意気のことである。
 しかし、禅(「臨済禅」)と鎌倉武士の関係はそんなきれいごとではなかった。臨済宗は、天台・真言が政権側に立ち朝廷・貴族が弾圧してくることに対抗し、時代の権力をにぎった武家政権に近づいて擁護を求め、鎌倉幕府は鎌倉幕府で自分たちのオーソライズと武士階級(「一文不知」の半農半武)の徳治政策のために、ストイックなほどに滅私奉公の気風あふれる武士と同調性のある禅を擁護したのである。禅と武士との関係は、お互いに利権が一致する政治的なステージだった。
 武士と言えば関東であるが、鎌倉幕府(源氏政権)を支えた坂東武者(御家人、半農半武)に禅をたしなむ人がいただろうか。鎌倉五山は鎌倉幕府の庇護によって成り立ったのであって、坂東武者が禅を心の拠りどころとしたわけではない。禅宗が民衆の間にまで広まったのはむしろ道元の曹洞宗の方で、臨済宗は茶の湯と相俟って将軍家など武家政権の権威づけの一端を担ったのである。尊氏が後醍醐天皇の菩提のために天龍寺を建立しているが、それこそが武家政権と臨済禅の政治的相互関係の現れではないか。

④大拙師の「日本的霊性」における武士と農民への偏重は、歴史家も民俗学者も言わない、労農主義・階級主義、マルクス主義ファンタジーであり、「北国」であり真宗王国の「加賀」ローカルファンタジーである。大拙師にとって歴史学も民俗学も仏教学も眼中にない。師の思索や論述に学問・学術はない。むしろそれとも対決姿勢である。

⑤大拙師の「日本的霊性」の視座は、平安貴族を嫌悪し、平安仏教を貴族文化の産物と言い、鎌倉期の「大地」に根を下す武士と農民に高評価を与える労農主義は、実に偏向的だ。

⑥大拙師の論述は、自説のすべてが客観的事実の如し(主観即客観)で、禅の「無」の境地(主客同一)の気分で書いているのではないか。武士・農民=日本国民全体であり、真宗王国「加賀」=日本全体である。すべて師独特の決めつけである。

⑦大東亜戦争末期に書かれた『日本的霊性』には、敗戦濃厚の戦時体制(大日本主義・日本精神)へのいらだちに似た感情の昂ぶりを感じる。「霊性(れいせい)」が「冷静(れいせい)」ではない。師ほどの人が禅の静寂、茶の「和敬清寂」とは真逆の、ハイテンションで書いている。「禅の大家」「世界の禅」も人なり。

⑧大拙師は、大学の教壇にも立った人だが、文献や資料に基づいて客観的な立場で自説を立てるいわゆる学者とか研究者ではない。文献の「誤読」や論理の「飛躍」も辞さず、文献の文意を自説のなかで自己解釈し自説に我田引水するのをいとわない思索家・思想家である。