蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

当山に眠る孤高の日本画家 田中一村

■田中一村(伝)略年譜

出生
明治41年(1908)7月22日、栃木県下都賀郡栃木町字平栁9番地に、父弥吉・母セイの長男として誕生。本名孝。画号:米邨(幼少から39才まで)・一村(39才から亡くなるまで)。
父弥吉は、田崎草雲(明治時代の南画家、当時栃木県だった現在の館林市出身)の弟子小室翆雲(明治~昭和期の南画家)との親交が考えられる彫刻家で、稲村・稲邨と号した。母セイは東京四谷生れの人で、教育熱心とも賢母だったともいわれる。
神童といわれた幼少期
幼少から頭脳明晰、父弥吉の影響を受けて画才・芸才に秀で、神童といわれる。
栃木町には当時、小室翆雲を後援する経済人・文化人(旦那衆)がいて、彫刻家稲村の後援をした。一村はそうした環境に育った。
東京へ移住
大正3年(1914)の年初、東京市麹町区三番町20番地に一家揃って移住。一村5才。近くに小室翆雲が転居していた。
移住の理由にはいくつか説がある。一つは神童のように画才・芸才に秀でた一村の教育のために東京生まれの母セイが強く進めたしたという説。二つには彫刻の師である渡邊正信の死により師を失くした稲村が、次の師として当代随一といわれた彫刻家加納鐡哉(明治~大正期の彫刻家・鉄筆画家)に師事するためという説(これは、栃木町の有力者が開催した稲村が東京に移住する資金募集のための「頒布会」趣意書に明記されている)。
画才
「はまぐり」を画いた色紙絵(大正4年、7才)、「菊図」(同年、同才、父が手を入れたため、怒ってその部分を切りちぎったという)、「白梅図」(大正5年、8才)、「観瀑」(大正6年、8才)、「蛤図」(大正7年、9才)、「花菖蒲」(大正8年、10才)、「紫陽花図」「天下第一春」(大正9年、12才)。南画風の絵にその才を見せる。
中学校入学
大正10年(1921)春、名門私立芝中学校(旧制、現在の私立芝学園中学校・高等学校)に入学。一村12才。
画業
「夏日山水」「つゆ草にコオロギ」(大正10年、12才)、「春江遊魚」(大正11年、13才)、「野菜図」「雪中南天図」(大正12年、15才)、「山水・松林閑居の図」「藤図」「白梅図」「喜呈芳色」「木蓮図」(大正13年、16才)、「枇杷図」(大正14年、16~17才)。
師事した師はなく独学のようであるものの、南画の練達ぶりがうかがえる。
大震災被災
大正12年(1923)9月1日、関東大震災に遭遇。家屋・家財道具一切を焼失。17才。一時、小室翆雲宅の離れに仮住まいさせてもらった。この時期、小室宅で、米邨時代の一村が翆雲から南画の指導を受けたことが推量される。
漢詩
幼少の頃から父に学んだのか、芝中で学んだのか、この頃には漢詩に長じていいた。大正14年(1925)に移住した先の家主重藤悦造にも漢詩と書を学んだという。一村は漢籍に好んで親しんだらしく、南画作品には漢詩の画賛が多くみられる。なかには超支謙や呉昌碩(中国清時代の南画家・書家・篆刻家)を思わせるものもある。
東京美術学校入学
大正15年(1926)、芝中を卒業し、東京美術学校(旧制、現在の東京芸術大学)日本画科に入学。同期のなかに東山魁夷山田申吾橋本明治加藤栄三らがいた。
同校退学
入学後わずか2ヶ月で退学。その理由については諸説ある。一つには家事都合。家計が厳しかったという説。二つには一村自身の健康がすぐれなかった(結核に罹患)という説。三つには当時南画を得意としていた一村にとって然るべき師がいなかったという説。一村の気性からして、家事都合とか結核に罹患が退学の理由とは思えない。芝中の学業成績も抜群だったといわれ、南画の才にも強い自負心を持っていたであろう当時の一村に、学ぶべきものがない美学校だったかもしれない。
南画の画風
この頃、一村の南画は相当のレベルにあり、画風には加納鐡哉・小室翆雲・富岡鉄斎(明治~大正期の文人画家・儒学者)・呉昌碩・趙支謙などの影響がみられる。
田中米邨画伯賛奨会
東京美術学校を退学した年の暮、父の世話で作品の頒布会(「田中米邨画伯賛奨会」)を開催。発起人のなかに小泉又治郎(小泉総理の祖父)や三木武吉(元衆議院議員、保守合同の立役者)など有力者の名がみえる。
「墨梅図」(「倣趙支謙」の賛あり)「藤花図」(大正14年、17才)、「墨梅長巻」、「木(扁額)」「牡丹図」「藤図」(昭和2年、18才)。弟芳雄逝去(昭和2年)。
富岡鉄斎の影響
画賛を多用。仏画(観音像)・仙境画(蓬莱山など)。「花(扁額)」「富貴昌図」(昭和3年、19才)、「富貴図」(昭和4年、20才)。
「菊水図」「富貴昌図」「桃果図」の三幅対、「艶鞠図」「桜花楓葉図」(昭和3年、19才)。母セイ・弟実逝去(昭和3年)。
南画の進化
表「富貴図」・裏「蘭竹図」(画賛「幽蘭賦」付)の衝立(昭和4年、20才)。
南画との離別
東京美術学校での2ヶ月の間に、日本画壇や美術界の動向から長い軸装や南画の時代の衰退を察知したのではないかと言われている。
新しい画風の挫折
新しい画風の自信作:「水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹」(昭和6年、23才)。
支持者と離別
本人の後日告白に「私は23歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなくその当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養ふことになりました」とある。
失意の時期
23才以降30才代の半ばまで、作品数激減。家族を養うため細工物や肉体労働でしのぐ。「竹」(昭和8年、25才)、この頃の作品か?「南天図」「松図」、「おひなさま」「ユリとアカヒゲ」。南画風ながらスケッチ(自然や動植物の写実)に軸足を置く。父弥吉(稲村)・弟明逝去(昭和10年)。
千葉へ移住
昭和13年(1938、30才)、母の義弟川村幾三氏を頼って祖母スヱ・姉喜美子・妹房子とともに千葉市千葉寺町に移住。川村幾三氏と奥様の喜美さん・令嬢不昧さん家族は一村にとって終生の理解者・支援者であった。千葉寺は坂東33ヶ所観音霊場第29番札所(真言宗豊山派)。祖母スヱ逝去(昭和14年)。
新しい支援・樹徳会
川村氏宅で月に一回行われた坐禅会に一村も加わる。この会のメンバーは、川村氏が親しかった千葉大学医学部の柳沢利喜雄氏、柳沢氏に誘われた岡田藤助氏・児玉勝利氏、そして友永得郎氏・篠原規休氏ほか千葉大医学部学生らの会。この会はやがて、一村の生活や画業支援の人脈にもなった。
千葉の生活と風景
一村は新築された戸建ての新居周辺で主食の食料・果樹・野菜を育て自給自足した。
都心での刺激の強い生活を軽軽してきた一村は、千葉寺付近ののどかな農村の自然と風景に心やすらいだのか、農村の風物や動植物のスケッチ(写実)に意を注ぐ。
大東亜戦争
戦時中の昭和18年(35才頃)には千葉県船橋市の板金工場で徴用工として働いた。
新しい画風
「栗」「毒だみの花」「白梅図」(昭和10年代)、「あばさけ観音」(昭和15年)、「夕日」「田園夕景」(昭和16~17年頃)、「蓬莱山日月長」(昭和17年)、「秋日村路」(昭和20年代)、「千葉寺の秋」(昭和23年頃)、「農家の庭先」(昭和28年頃)。
このほか「白衣観音図」(昭和20年)。戦争末期には戦勝祈願のためか身上安全を祈るためか観音様の像をよく書いた。
鳥というモチーフ
「柿にかけす」「枯れ木にきつつき」(昭和20年代)、「花と軍鶏」(昭和27年)「秋色虎鶫」(昭和30年頃)、「忍冬に尾長」(昭和31年頃)。
昭和22年の画壇
日展・院展ともに日本画壇を代表する重鎮作家が審査員をつとめ、日展では一村の旧友の加藤栄三・橋本明治が招待作家に、東山魁夷が特選、山田申吾が入選となった。
青龍展入選
昭和22年(39才)の第19回青龍展(川端龍子主宰)で「白い花」が入選。画号を「米邨」から「一村」に変える。
川端龍子と決別
昭和23年の第20回青龍展で自信作の「秋晴」が落選、気楽に画いた「波」が入選。
このことで龍子に抗議したが、「青龍社のめざすものとちがうので」とのことだった。「秋晴」と同様の作品に「黄昏」がある。
花鳥図の大作群
一方、この頃千葉時代を代表する襖絵「花と軍鶏」ほか「桐花に尾長」「梨花に高麗鶯」(昭和20年代)、屏風絵「花譜図」「燕子花図」(昭和20年代)、「菊水図」(昭和22~23年頃)、「菊花図」(昭和23年)、「浜松図」「軍鶏図」「春景山水図」「千山競秀図」「牧童帰茅図」「乾坤一艸亭図」(昭和20年代)の大作を精力的に画く。なかには琳派の「たらしこみ」の画法が見られる。
その後の南画
南画とは決別した一村だが、その後にも南画作品を残していた。「四季山水図 仿蕪村」「山水図 仿木米」「山水図 戯撫聾米」(昭和20年代)「仿」は「倣」に通じ「ならう」こと。「仿蕪村」は「与謝蕪村の画法にならって画いた」という意味。「戯撫」は「戯れになでる」、「聾米」は青木木米(江戸期の絵師・陶工)の別号、やはり木米に「ならう」、「自由になぞって画く」という意味か。
天井画
その後、28年(45才)に第9回日展に「秋林」を、29年(46才)に第10回日展に「杉」を出品するも入選ならず。しかし、石川県羽咋郡宝達志水町「やわらぎの郷」(宗教法人やわらぎの教会)の聖徳太子殿天井には49種類の薬草画を画く。
旅に出る
昭和30年6月(47才)、九州・四国・南紀へ長期旅行をする。
「放牧」「阿蘇草千里」(阿蘇)、「ずしの花」「山村六月」「山村六月~北日向にて」「新緑~北日向」(北日向)、「青島の朝」「浜木綿と緋桐」(宮崎日南海岸)、「雲仙雨霽」(雲仙)、「僻村暮色」「僻村暮色 恵良駅」(大分由布岳の麓)、「由布嶽朝靄」(大分由布岳)。「室戸岬」(高知室戸岬)、「足摺狂濤」(高知足摺岬)。「九里峡」(和歌山熊野川)、「鬼ヶ城黎明」(和歌山木本海岸)
院展
昭和33年(50才)、第43回院展に「岩戸村」「竹」を出品して落選。自分の絵と院展の理想主義は合わないことはわかっていての出品だったよう。
花鳥画の傑作
昭和33年、永年の支援者である千葉市岡田家のために襖絵「四季花譜図」と「白梅図」を画く。自ら「30年来の写生」の成果という。
千葉とも別れ
「暮色」(昭和33年)。
姉喜美子とも別れ
一大決心であろう、50才にして遠い奄美に渡る決心をする。母代りとなって献身的に一村を支えた姉喜美子を千葉に残し、家も売った。千葉を離れる際、親しい知人に「(中央)画壇に勝負をかける(負けない)」といった旨の決意を口にしていたという。(中央)画壇とは決別した川端龍子(青龍社)のことか、あるいは日展・院展などのことか、あるいはそうした中央画壇で名をとどめはじめた東山魁夷ら東京美術学校の同期生のことか?
奄美へ
昭和33年12月13日朝、鹿児島から船で奄美大島名瀬港に着く。50才。「十三日未明船上より初めて黒き奄美の姿を見る。遥けくも来つる哉の思ひあり。」
名瀬の警察に出向き、署長の親切で梅乃屋(旅館?)という下宿に荷を下ろす。
3日目、千葉時代の支援の会樹徳会のメンバーだった友永得郎氏(長崎大学教授)と千葉大出身の亀谷敏夫氏(当時、厚生省九州医務局次長)の紹介状を持って「和光園」(ハンセン病療養所、現在の国立療養所「奄美和光園」)の小笠原登医師をたずねる。以後、園長の大西基四夫氏や事務長の松原若安氏の厚遇を受け、小笠原医師とも親交を持つ。「和光園芳名録」(昭和33年12月17日)。
与論島へ
奄美に着いて一週間後の12月20日、与論島に渡る。「与論島初冬」(昭和34年)。
「日暮れて道遠し」(推定、与論島、同時期)。17年後「与論島追想」(昭和50年)。
「和光園」に寄宿
翌年昭和34年(51才)、小笠原医師のいる「和光園」の官舎に居を移す。特段の配慮だった。「釈尊大悟御像」(「和光園」に、昭和35年、52才)。
「和光園」の自然
付近には亜熱帯植物が生い繁り、一村にはかっこうの観察と写生と作品の対象となった。「山中の雨」(昭和34年)、「パパイヤとゴムの木」(「和光園」にて、昭和34~35年頃)。「白花と赤翡翆」(昭和42年、59才)。
人の輪
「和光園」を場に、一村に親しい人間関係ができる。松原若安・小笠原登・中村民郎(「和光園」レントゲン技師)・福田恵照(旧名瀬市、浄土真宗大谷派・大島寺住職)の各氏。お互いの専門分野から哲学的談論まで楽しんだという。
トカラ列島へ
昭和34年(推定)、トカラ列島の宝島に渡る。「寶島の奇巌」「宝島」「岬~トカラにて」「麗日~トカラの馬」「平和な朝」。「奄美の海」(昭和50年)。
ゴーギャン同憬
「漁樵對問」(昭和34年)、「漁樵對問」という画題の作品数点(昭和35年頃)。ゴーギャンを想わせる。
一時千葉へ
昭和35年5月(52才)、千葉へと帰る。「高倉のある風景」「高倉風景」「高倉の並ぶ春景色」(昭和35年)、千葉の親しい人たちへ。家のない一村は、樹徳会のメンバーだった岡田藤助医師(当時、国立千葉療養所所長)の世話で所長官舎に仮住まいする。
襖絵と奄美の絵
その岡田家のために襖絵「紅梅図」と「松図」(奄美に渡る前に画いた「四季花譜図」の裏面の4面)を画く。また、千葉に帰ってから岡田家のために画いた作品十数点を燃やしてしまい、代りに「紅梅丹頂図」と「白梅に高麗鶯」を贈る。同時期、ちがう画風の奄美の絵も画く。「草花と岩上の赤髭」「アダンと小舟」(昭和35年)、「奄美の海に蘇鐡とアダン」(昭和36年)。
良縁断念
昭和36年(53才)、岡田医師の世話で神社の宮司の令嬢と見合い。3月、一村自身は前向きだったが、結局断念。4月には奄美に帰る。
旧名瀬市有屋の借家
同年12月、「和光園」職員・泉武次氏所有の粗末な貸家(旧、名瀬市有屋)に移る。早速、庭先に家庭菜園をつくり自給自足を試みる。
日課の散歩
散歩を日課とし、毎日早朝から決まった時間、「和光園」の周囲や本茶峠や山羊島などへの独自の散歩コースを歩く。時には名瀬からかなり離れた島北部のあやまる岬にも足を伸ばしステッチに勤しんだ。道はなだらかではないが、行く先には亜熱帯の花々やガジュマル・クワズイモ・蘇鉄・ビロウ樹などがのびのびと根・枝・葉を伸ばし、木々にはすルリカケス・キツツキ・アカゲラや蝶などが遊び、海浜に出ればアダンの群生が潮風を受けながら待っていた。大海原の水平線の向うにニライカナイの想像もしたであろう。「林間夕照~峠の花」「鬼ヘゴと谷渡り」(昭和34年)、「山路の花」(昭和30年代)。
奄美の大自然に同化
大自然のなかに身を置くことで一村はスケッチする自然と対峙するのではなく、それと同化する(内側に入る)感覚を悟ったと思われる。大自然というモチーフのなかに自らが入り内側からその本質(美)を描くのである。
紬工場の染色工
昭和37年(推定)(54才)、有屋の住いと山羊島のほぼ中間にある大熊集落の久野工場(大島紬工場)で染色工として、昭和42年夏までの予定で、働きはじめる。
自称「有数の熟練工」。日給450円(当時、日雇労務の240円=ニコヨンが社会問題になった、東京の有名デパートの学生アルバイトが日額400~500円)。
通勤の服装は、当初着物を着ていたが、そのうち散歩の時と変わらない、ステテコにランニングかクレープのシャツ、そして地下足袋。奄美の蒸し暑さを知る人ならわかるであろう。いつもスケッチブックやノートなどが入った風呂敷包みを持っていたという。「初夏の海に赤翡翆」(昭和37年頃)。「大熊風景」(昭和44年、61才)。
魚・エビのスケッチ
大熊集落には漁港があり魚屋が数軒あった。一村は紬工場への往復や昼休みに懇意の魚屋に寄っては珍しい熱帯魚やエビを観察し丹念にスケッチした。たまには魚を買い、スケッチが終ると住いでごちそうにした。
姉喜美子の死
昭和40年(57才)3月、千葉の姉喜美子が危篤とのことで一時帰郷。5月、看病の甲斐なく喜美子逝去。遺骨を携え奄美に帰る。
川村幾三氏の死
同年12月、家族同様で一村最大の支援者だった千葉の川村幾三氏が逝去。帰郷せず見舞いの色紙「孤枩」「花と石崖蝶」を贈る。昭和40年は一村にとって悲運の年になった。
画業に専念
昭和41年12月(58才)、紬工場を辞し、予定した通り、同42年年初から44年末までの3年間画業に専念する。
南画と琳派と
「枇榔樹の森に崑崙花」「枇榔樹の森に浅葱斑蝶」「奄美の郷に褄紅蝶」「枇榔と浜木綿」「枇榔樹の森」「蘇鉄残照図」「榕樹に虎みゝづく」「草花に蝶と蛾」「大赤啄木鳥と瑠璃懸巣」「岩上赤翡翠」(昭和40年代)。「白花と瑠璃懸巣」「枇榔樹の森に赤翡翠」(未完)。
再度紬工場へ
昭和45年年初(62才)から46年末の2年間
画業に専念するも
昭和47年年初(64才)から49年末の3年間。ただし47年は、腰痛のほか失神・めまい・昏倒などで2年足らずで画業を休止した。本人の言によれば画業休止の理由は「インフレ攻勢」だという。インフレ攻勢とは、物価高で画材が高騰したため制作予定の作品に使いたい画材が買えなくなった、という意味か。
熱帯魚に魅せられ
体調不全のこの時期、一村はしきりに熱帯魚を画く。「熱帯魚」「クロトンと熱帯魚」(昭和47~48年頃)、「熱帯魚三種」(昭和48年)。
再々度紬工場へ
昭和49年末(66才)から50年夏にかけて約1年半。「海老と熱帯魚」「海の幸」(昭和51年)。
体調異変
昭和51年6月、畑仕事のさなかに脳卒中で倒れる。1週間入院、その後リハビリ。千葉から妹の新山房子氏と子息の宏氏が来て、奄美作品を預かって帰る。
千葉へ
昭和52年4月(69才)、この12年大事に守ってきた姉喜美子の遺骨を手に千葉に帰省した。前もって新山氏親子に預けた奄美作品を千葉の旧知に披露するのと、姉の遺骨を栃木市の菩提寺(満福寺(真言宗智山派))にある田中家墓所に埋葬するためであった。この時千葉の旧知に披露された作品のなかに、のちに代表作と言われるようになった「アダンの海辺」(閻魔大王への土産と本人が評した作品、昭和44年、61才)と「不喰芋と蘇鐡」(昭和40年代中期?)があった。
ふたたび奄美へ
姉の納骨を終えた日、高熱を出し数日療養する。5月も半ば、千葉で披露した作品を持って奄美に帰る。9月早々、慣れ親しんだ有屋の貸家が区画整理のため使用不可能になり、近距離に似たような古家を借り移転。
逝去
移転してまもない昭和52年9月11日、夕食の準備中台所で失神昏倒しそのまま不帰の人となった。行年69才。
葬儀は島で親しくしていた人の手で行われたらしく親族は間に合わなかった。遺骨は後日親族に引き取られ満福寺の田中家墓所に埋葬された。
法名:真照孝道信士
大自然の生命の営みや躍動といった真実の美(真)に日本画の画法の光をあて(照)、それをモチーフとしてその真実世界を画家の良心にかけて描く、そうしたウソのない画業の道(道)に忠実に愚直に生き(孝)、虚飾のない作品で中央画壇に勝負をかけた、画心一如の画家、男らしい気概に満ちた信念の士、絵を画くなかですでにニライカナイ(海上他界)に心を遊ばせていた(仏の心境にあった)人(信士)、という意味。
大音響がとどろき、
土砂降りの雨に稲妻がひらめく
夏の雷は、関東平野の北央に位置する
栃木県の名物だ
鮮烈な光に似て、時に激しく時には頑固に
「わが道を行く」人が現われる
正直で、武骨に本質にこだわる、
そんな野州人の精神がこの地には宿っている
(平成15年8月30日、読売新聞夕刊)
一村はまさに、栃木の風土が生んだ鬼才だった。
<参考資料>
  • 『田中一村伝 アダンの画帖』(中野惇夫ほか、南日本新聞社、道の島社)
  • 『アダンの画帖 田中一村伝』(南日本新聞社編、小学館)
  • 『田中一村作品集 NHK日曜美術館「黒潮の画譜」旧版』(日本放送出版協会)
  • 『田中一村作品集 新版』(中野惇夫・大矢鞆音編、日本放送出版協会)
  • 『田中一村作品集〔増補改訂版〕』(大矢鞆音、NHK出版)
  • 『評伝 田中一村』(大矢鞆音)
  • 各種図録ほか