蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

当山に眠る孤高の日本画家 田中一村

一村の菩提寺・満福寺住職に聴く<br>清貧孤高の日本画家 田中一村

大出今日はご多用のところ、お時間をいただきまことに有難うございます。本誌では、これまでに折にふれて田中一村さんを取り上げてまいりましたが、あらためて一村さんが眠るお寺のご住職にお話を伺ったことがありませんでした。今日は是非いろいろとお聞かせ戴きたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
長澤住職私でよければ、ということでお話しをさせて戴きます。というのも、私は一村の研究者でもありませんし、美術館の学芸員でもありませんし、ましてや絵画については学童の頃不得意科目で先生に褒められたことがないくらい素養がありません。ただ一村さんの名前が知られるようになった当初から今日まで、一村さんが眠るお寺の住職ということから多くの関係者とお会いしたり情報を戴いてきましたので、栃木市では詳しい方かとは思います。
満福寺 長澤弘隆住職 (本年元旦、新年大護摩法要)
満福寺 長澤弘隆住職 (本年元旦、新年大護摩法要)
大出そもそもですが、一村さんとの出会いはと言うと…?
長澤住職そもそも、昭和52年4月、亡くなる約半年前ですが、一村さんは千葉のご親族に預けていた奄美での作品群を千葉の親しい人たちに披露するのと、奄美で身近に置いていた姉・喜美子さんの遺骨を当山の田中家墓地に納骨するため一度千葉に帰りましたが、そのお姉さんの遺骨をお預かりして後日お墓に納骨をしたのが最初です。
 遺骨を預かったのは私の母で、その日私は留守にしておりました。当時はアポなしで檀家さんが来られる時代でした。直接は会っていません。その後、亡くなった一村さんの遺骨を千葉のご親族が納骨する際お世話させて戴きました。その時はまだ、一村さんは無名で、当山でも遠い奄美で暮していた「田中 孝」さんという貧しい絵描きと聞いているだけでした。
 そのあと、一村さんが(奄美では「気ちがいジイさん」などと言われていたが)実はただならぬ日本画家だということを教えに来てくれたのが小山の江田真治さん(工務店経営)でした。江田さんは同じ小山の写真家田辺周一さんや奄美で陶工修行をしていた笹倉慶久さんと仲良し3人で、一村さんが亡くなる年の5月に、千葉から帰ったばかりの一村さんを旧知の宮崎鉄太郎さん(奄美で一村さんを最もよく世話したといわれるホテル支配人)と一緒に4人で訪ねています。上半身はハダカで、パンツ一枚の一村さんが談笑しているモノクロの画像をよく見かけますが、あれはその時田辺さんが撮ったものです。江田さんはその後何度もお墓参りに来られ、そのたびに寺務所に寄り一村情報を寄せて戴きました。
 それからしばらくして、昭和59年の12月にNHK(今のEテレ)の「日曜美術館」が一村さんとその画業をオンエアして(黒潮の画譜「異端の画家 田中一村」)世の中に衝撃を与えた直後、一村さんが栃木市生れだということでタウン誌『うずまっこ』をやっていた梶原さんと二人で取材や広報を行った時は、市の文化担当課も文化団体もみな一村の「い」の字もなく無関心でした。今「とちぎ蔵の街美術館」があり、一村さん関係の収蔵品を多少栃木市が持てるまでになったのは、私の要望を受け骨折ってくださった鈴木乙一郎元市長さん、そして当時担当された市の幹部、さらに教育委員会で一村さん関係の仕事を担当した職員の皆さんのおかげだと思っています。

奄美の一村旧跡

大出最近、奄美に行ってらっしゃったとか?
長澤住職ええ、令和になってまもなくの連休明けに行ってきました。一昨年は没後40年、昨年は生誕110年で、それぞれ出かける計画をしたのですが、多用のためになかなか実現できず、遅きに失した感がありますがやっと今年念願が叶いました。
大出どんなところを見て回られましたか?「終焉の家」なんかはだいぶ老朽化が進んでいるとか?
長澤住職おっしゃる通りで、一村さんが亡くなった家(「終焉の家」)はちょっと心配な状態でした。せっかくの機会ですので、一村さんゆかりの旧地・旧跡を下調べし、予約しておいた貸切タクシーとも事前に意思疎通を図り、ほぼ予定通り現地確認や写真撮影ができました。いずれ今制作中の当山のホームページに載せたいと考えています。訪ねましたのは、
①まず奄美パークに内ある「田中一村記念美術館」。
旧知の前野耕一学芸員さんの出迎えを受け、前野さんの案内で貸切同様で館内を観覧しました。ほとんどは何度か見ている作品でしたが、初見のものが2~3点ありました。
田中一村記念美術館
田中一村記念美術館
②それから、「本茶峠(ふんちゃとうげ)」。
一村さんがスケッチブックを小脇にかかえて何度も通ったという亜熱帯植物の生い茂る旧道の峠です。この旧道は空港のある笠利町とか龍郷町などと名瀬をつなぐ道路で、その中程にあります。
③そして、その旧道を下りて名瀬(現在は奄美市名瀬、旧名瀬市)へ。
大熊地区への入り口で運転手が気を利かせて、一村さんがいつもお世話になっていた理髪店を教えてくれました。
そこから有屋地区の「終焉の家」へ。一村さんの在りし日を偲び瞑目・合掌しました。帰りに下の道をはさんでお隣の泉さん宅(おそらく、一村旧居の持ち主)へも。床の間には一村さんの作と思われる大きな蘇鉄の絵(おそらく「蘇鐡残照図」のレプリカ)が掛けてあり、一村さんが画いたという老夫婦の鉛筆画も見せてくれました。
奄美市名瀬有屋町の「終焉の家」
奄美市名瀬有屋町の「終焉の家」
奄美市名瀬有屋町の「終焉の家」
奄美市名瀬有屋町の「終焉の家」
④それから、すぐ近くの一村さんが16年住んだ「旧居跡」。
今は道路になっていて、以前とは景色が一変しています。至近のところに有屋の「徒根屋(とねや)」(琉球習俗の自然宗教のパワースポット、「ノロ」(巫女)が住む家という意味)があり、一村さんはそのそばで暮していました。
16年住んだ有屋の旧アトリエ兼住居
16年住んだ有屋の旧アトリエ兼住居
今は道路になっている住居の跡地
今は道路になっている住居の跡地
⑤さらに有屋川にかかる「一村橋」へ。
⑥そして亡くなった「終焉の地」。「一村橋」からまっすぐ和光バイパスの方に延びる道路右側の空き地(現在、大島自動車検査登録事務所の敷地?)の「終焉の地」(「終焉の家」は最初ここにあって、その後二度移転している)。
橋の向うに見える「終焉の地」(コンテナのある塀のなか)
橋の向うに見える「終焉の地」(コンテナのある塀のなか)
⑦それからまた、「終焉の家」の最初の移転先。
⑧次いで、「奄美和光園」。一村が奄美に渡ってまもなく、小笠原登医師などの厚意で住まわせてもらった国立ハンセン病療養所の職員官舎跡。
⑨さらに、大熊地区に移動して「旧奄美焼の宮崎鉄太郎氏宅跡」の徳洲会病院駐車場。
⑩また、大熊港の一村がよく通ったという魚店「山田屋」跡。港から名瀬港を望み、名瀬港入り口の「立神」を遠望。
⑪そして、一村がアルバイトをした「久野紬工場跡」。
⑫それから、宮崎さんが支配人を勤め、一村の初の個展が行われた山羊島の「シーサイドホテル跡」(今は、山羊島ホテルが建つ)。
⑬最後に、「本茶峠」を越えてアダンのスケッチに行ったという島北東部の「あやまる岬」
あやまる岬の奄美市歴史民俗資料館の芝生広場に建つ一村の「砂白く 潮は青く 千鳥啼く」の句碑
あやまる岬の奄美市歴史民俗資料館の芝生広場に建つ一村の「砂白く 潮は青く 千鳥啼く」の句碑
 そのほか、帰りの飛行機の時間ギリギリまで見て回りました。
大出亡くなってもう40年ですが、島での一村さんは今どうでしょう?
長澤住職去年が生誕110年でしたので、今年は特には何もない年のせいか、例えば何度かタクシーを使いましたが、運転手は美術館も知らず一村も語らず、島の人と一村を共有するどころではありませんでした。私がたずねた一村の旧跡も「終焉の家」以外は案内板もなく、一村の気配を感じません。とくに「奄美和光園」の職員の対応にはそういうものを感じました。島では忘れられた異邦人のようです。

没後40年・生誕110年 そして一村の新しいお墓

大出一村さんのお墓が新しくできたそうですね?
長澤住職そう、一昨年(平成29年)の春の早い頃だったと思いますが、一村さんが眠る田中家代々のお墓を守っておられる千葉のご親族から問い合わせがあり、「私が守れなくなったあと、田中家のお墓はどうなりますか」というので「一村さんが眠るお墓ですから無縁墓として片づけるわけにもいきませんので、当山の責任において永久保存します」と答えました。
 お墓の話というのは個人情報の問題があり気をつけてお話しなければならないのですが、さしつかえのない範囲で言いますと、田中家のお墓には一村さんの墓石がなく、全国から一村ファンがお墓参りに来られても、香華を供え手を合わせて戴くのはこれまではご先祖の墓石でした。
  ほどなく、千葉のご親族から「私も次第に高齢に近づいているので、今のうちに田中家のお墓に少し手を加え、お参りに来てくれる一村ファンのために一村の墓碑を考えたいのだが、そのスペースがないので墓誌を建てるのはどうだろう」と相談がありました。「結構じゃないでしょうか」と答えましたら「それでは、どこか相談できる石屋さんはいないか」ということでしたので当山出入りの石材店を紹介しました。
大出そういえば田中家のお墓は あまり広くなかったですね。確か古い墓石が二つありましたか?
長澤住職そうなんです。そこにご先祖の墓石が2基建っていて、両親もご本人も墓石がありませんでした。ですので、この際将来のことを考えてご親族としては一村さんのお墓であるという何か形のあるものを狭いながらも作れないだろうかと思案されたんだと思います。
大出一村さんの両親の墓石はなかった? はるか遠い奄美で絵に没頭していて、建てられなかったんでしょうね。
長澤住職その後ご親族と石材店との間で話が進みまして、墓誌を建てることになり現場の確認となりました。ところが、残念ながら考案された墓誌を建てるにはスペースがなくどうしたものかとなったのですが、たまたまうしろの地面が空いていましたのでうしろに広げてもいいですと申しました。
大出お寺としての善意から ? めったにないことでしょう。
長澤住職まあそうです。それはよかったのですが、墓誌を建てるにしても石材店としては地固め工事が必要だと。そしてさらに地固め工事の際には、骨ガメを痛める心配があるので地中の遺骨を一度掘り出す必要があると。そうなると、この際基礎工事をきちんとしカロート(納骨室)も設けたらどうか、と次第に話がふくらんでいきました。
大出墓誌を作ることから話がだんだん広がりましたね。
長澤住職どうせやるならと、石材店も知恵が出てきますから。今までの場所自体が手狭なこともあり、数人の墓参ならまだしも、バスなどで多数の方が参られることもあるかもしれません。そうしますと、周囲のお墓に踏み入ったりして大変迷惑がかかるわけです。これからも、不特定多数の一村ファンの方が全国から墓参に来られるでしょう。そんなことを勘案し、私が「それなら近くに空いているところがあるので、そちらに新しいお墓を作られたらどうでしょう」と提案しました。
 新しいお墓は一村さんの墓石(「田中一村之墓」)を新たに用意し、それを中心に据える計画へとさらに広がりました。
大出一村さんのお墓が、蔵の街の観光スポットになるかもしれませんからね。
長澤住職お寺としても、はじめてお参りに来られた人に一村さんのお墓はわかりやすいことが何よりです。話は結局、広い場所に一村さんの墓石を中心に田中家のお墓を新築することになりました。
田中一村のお墓
田中一村のお墓
大出元々あった田中家のお墓の 何倍になりますか。
長澤住職そうですね、約4倍はあると思います。千葉のご親族も喜んでくださって、一村さんの墓石は自然石で、さらに一村さんが詠んだ「熱砂の浜 アダンの写生 吾一人」の俳句と自画像をともに刻んだ石碑、そして田中家のご先祖の戒名等を刻んだ墓誌、その裏面に家系図と、立派なお墓になりました。ご親族の熱意と石材店の知恵・技術によって、一昨年9月11日、一村さんの命日にも間に合いました。一村さんは感謝していると思います。田中家当主として先祖のお墓には不義理していましたから。
 昨年は生誕110年にあたり、滋賀県琵琶湖畔の佐川美術館が、7月14日~9月17日、一村展を開催しました。私も最後の頃行ってきましたが、学芸員の方に聞きましたら連日大盛況とのことでした。また、4月6日~9月24日には、箱根の岡田美術館が新規購入した「白花と赤翡翠」「熱帯魚三種」を中心に一村展を行いました。奄美でも記念展が開催され、盛況だったそうです。そのせいか、新しい一村さんのお墓にも大勢のファンがお参りに来られました。

一村顕彰活動について

大出ご住職は、以前の「田中一村会」の時も、昨年栃木市に設立された「田中一村記念会」の場合も、講演会や総会、会議の場所として客殿を提供するなど協力しておられましたが、ここのところ「田中一村記念会」の年次総会・講演会が市の施設で行われ、なぜ会場が満福寺じゃないのかとか、ご住職は確か会の副会長だったと思いますが、最近退会されたと聞きます。腹を立ててやめたとか、誤解されている向きもあるのでは…。
2018年、東京青山ブックセンターにて「清貧」が消え「孤高」に。
2018年、東京青山ブックセンターにて「清貧」が消え「孤高」に。
長澤住職私の信条としましては、その件についてあまり表立って口にすべきでないと考えていまして、こういう場で申し上げるのもためらいもあるのですが、誤解を受けているとすれば説明責任という意味でお話ししたいと思います。
 一村さんが眠る寺の住職としては、一村さんのために顕彰の活動をしてくださる人には協力する、というのが私の基本スタンスです。ですので「田中一村記念会」についてもまったく同様でした。
 最初、準備会の段階ではオブザーバーのような立場で発起人の皆さんのお話に耳を傾けておりました。設立後は副会長を仰せつかりましたので、まずは幹部の皆さんと歩調・呼吸を合わせることに留意しました。
 また、設立直後ということで活動資金もままなりませんので、資金面の協力もさせて戴きました。会議・総会・講演会の場として客殿を無料提供もしました。私でなければ入手できない情報も提供しました。
 さらには、一村さんの画業に関することや、これまでの栃木市における一村さん関係の動向、またその経過などについても必要に応じてお話させていただきました。発起人及び設立後の幹部役員さんのなかには一村さんをよく知らない方もおられましたから。
 それから、昨年秋頃から今年の春先まで、4月には2年目を迎えるに当り活動の本格化やそれに必要な資金をどうするか、2年目から活動を本格化しませんとズルズルと総会・講演会・命日の墓前法要程度の活動に満足し、すぐにマンネリ化するのが予測されますから、それでいいのか、一度は幹部役員だけで協議したらどうか、会報発行の話もありましたので、今はペーパーレスの時代、しかもわずかな発行部数で、手間もかかります。それなら会報を兼ねたホームページを開設したらどうか、さらに一村さんの作品や画業を研究する後継者の育成とか、一村さんのような逸材の育成など、それには必要な資金を幹部がまず率先して工面するべきだが、と具申をしました。今までの民間団体での経験から「当然のこと」を具申したのですが、しかしそれは幹部役員さんには通じず、私の思いちがい・見当ちがい・独り合点・独り相撲であることがわかりました。不徳の致すところです。
 一方で、すでに後期高齢者になった僧侶(老僧)の私が、今さらサブカルチャー活動でもありません。もとより行政にモノを言う市民運動(時には、市政クレーマーとの悪評)でもありません。ましてや、活動資金の不足を市からの助成(市民の血税)などに求めるなど、そんなあさましいことは私が最も忌避することで、そういう意味では年令相応の振舞いも大事にしなければなりません。晩節というものがあります。意見が合わないところで無理に我慢をして付和雷同している場合ではありません。やれても、あと5年。私の思いとは遠い「田中一村記念会」はもどかしく、私がいる場所ではない、自分なりの一村顕彰活動をやった方がいい、と悟りました。
 もう一つ、お寺の客殿を使って戴くのは、客殿を造る時の目的に檀家の方をはじめ広く不特定の人に多目的に使って戴くことを入れてあり当山としては結構なことなのですが、「特定の政治団体の集会の場」になっているという誤解を受けるようになりますと、さすがに私も慎重にならざるをえません。確かに「田中一村記念会」の幹部の方が政治的なことは周知の通りですので、誤解を解くためには客殿の利用を辞退するしかありませんでした。一村の命日の墓前法要も辞退させていただきました。「お寺の施設が、政治に利用されているんじゃないか」「住職は、なぜあの人たち(政治的な幹部)と付き合っているんだ」という声に逆らえませんでした。
大出菩提寺は菩提寺なりのやることがあるのではないでしょうか。例えば、お寺の入口から一村さんのお墓までを「一村の小径」と銘打ち、一村さんやその作品にかかわった人たちから簡潔な一村評を求め小径に掲示するとか。これにより一村さんの人間性や作品への一歩踏み込んだ評により、菩提寺ならではの一村顕彰になると思いますが…。
長澤住職そうですね。一村さんの菩提寺としてできることがあれば、命あるかぎりやっていこうと思っています。またできればですが、一村作品を所蔵している、奄美の「田中一村記念美術館」、千葉の「千葉市美術館」、宇都宮の「栃木県立美術館」、栃木の「とちぎ蔵の街美術館」、箱根の「岡田美術館」の学芸員間のネットワークができないか、そのネットワークで大矢鞆音さんを講師とする「一村塾」を開催し、大矢さんの著書『評伝 田中一村』をテキストに一村伝承ができないか、要するに一村さんを知る人がだんだん欠けていく、一村さんの語り手がいなくなる、一村さんが風化する、その対策です。
 文星芸大とか首都圏の美大生に清貧孤高の画家中一村の画風研究を奨励できないか、プロの若い画家を対象にした「一村記念公募展」ができないか、なども思案しています。いずれも協力者やスポンサーを必要とすることですが…。一村さんのファンでもある大川市長さんが一村さんのことで市として何かやる時は協力しますし、とくに仮称「栃木市文化芸術館」のオープン記念として「田中一村ふるさと展」の開催を是非実現したく、私なりの立場で協力したいと思っています。
大出本日はお忙しいなか、一村さんに関する貴重なお話をお聞かせいただきまことに有難うございました。これからも何度かお話をうかがいたいと思っておりますので、よろしくお願いいたします。
提供:『グラフ北関東』
主幹 大出恒夫氏
グラフ北関東