蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

基礎研究と応用研究

令和元年10月18日
 〈リチウム電池の父〉といわれる旭化成(株)名誉フェローの吉野彰さんが、今年のノーベル化学賞を受賞することが決りました。リチウム電池といえば小型・軽量・高性能で充電可能の、ケイタイ電話やパソコンやデジタルカメラなどに不可欠の電源で知られています。吉野さんの業績は基礎科学を踏まえた応用科学の成果。つまり科学的な原理・法則・理論を実用化し製品化しあるいは産業化し、世界の人々にポータブルで高性能な電源を提供した、大きく言えば人類社会の福祉に貢献したこと。
 余談ながら、おとなりの反日の国・韓国はまた日本からノーベル賞受賞者が出てくやしがっているようです。日本は今回でノーベル賞受賞が25人(外国籍の日本人を入れると28人)。韓国はわずかに金大中の平和賞のみで、ノーベル賞ほか物理学・化学・医学などの科学部門や建築・文学・写真等63の国際的な賞の受賞者はゼロで、「知性」の民族的なレベルがこれで明白です。
 聞けば、韓国製のスマホは日本製の部品ことにはリチウム電池を使っているとのこと。日本製品の不買運動をやるのなら、韓国製のスマホは中身が日本製なのですから韓国製のスマホも不買の対象になってもいいはずですが、そこまでやる度量もなさそうで、素材や部品を急いで国産化しデジタル製品で脱日本を実現するなどと大統領は大言壮語していますが、基礎科学も応用化学も日本に遠く及ばず、この分野でノーベル賞を一度も取ったこともない国に、日本を越える日が来るのはいつのことでしょう。
 ところで、吉野さんの受賞を聞いて基礎科学と応用科学、あるいは基礎研究と応用研究、ということが頭をよぎりました。これまで日本のノーベル賞受賞者の多くは湯川秀樹さんをはじめ基礎科学・基礎研究(主として大学・研究所などの理化学研究機関)でしたが、吉野さんは応用科学(民間会社)。
 基礎科学というのは、大きく言えば宇宙・自然の法則性を原理・原則として物質のさまざまな在り様を実験・実証(法則性の証明)によって理論化するのですが、一方応用科学はその基礎科学の研究成果に基き、物質を製品化し産業化し実用化して人々や社会に役立たせる・寄与するものと言っていいでしょう。
 思えば、仏教の研究にも基礎研究と応用研究があり、仏教思想全史的な観点で言えば、釈尊の「無執著」の思弁哲学から小乗仏教のアビダルマまでが〈どうすればサトリに至るか〉の基礎研究。大乗仏教の唯識派(瑜伽行派)の唯心論・中観派の中観思想・『般若経』の「空」は、釈尊の「無執著」の応用研究。菩薩の登場・『法華経』・諸法実相・『華厳経』・法界縁起・法身の登場・『大乗起信論』・如来蔵の登場は、大乗の「空」とその実践(「慈悲」行)の応用研究。そして真言の強調・密教は「空」とその実践と「衆生済度」の応用研究です。
 また、現在の仏教研究の観点から言えば、サンスクリット(仏教の経論のインド原語)・チベット語(チベット訳の原語)・漢文(漢訳の原語)に習熟し、さらには英語・ドイツ語・フランス語といった語学を身に付け、経論など仏教の原典・原資料を梵(サンスクリット原典)・蔵(チベット訳)・漢(漢訳)などの文献考証によって精確に解読し、仏教思想の正しい理解を行うのが基礎研究。現在仏教系大学などで行われている仏教研究はほぼこれです。この基礎研究は専ら学術的に確かな文献(客観資料)に依拠し客観的な論拠によって行われるので科学的方法と言えます。これは明治期以降ドイツやイギリスに学んだ渡辺海旭・高楠順次郎・荻原雲来・木村泰賢・宇井伯寿・渡辺照宏などの研究者がもたらした研究法です。
 一方、原典研究などの基礎学に基き、仏教思想を自らの思想や哲学や文学に採り入れたり、仏教思想を独自に編集して新たな仏教思想を創案したりするのが応用研究で、前者には西田幾多郎・鈴木大拙あるいは三島由紀夫・岡本かの子・井筒俊彦などが、後者には伝教大師最澄や弘法大師空海がいます。あるいは日本仏教の開祖はある意味みな応用研究でしょう。
 比叡山の伝教大師最澄は仏教思想史のなかから『法華経』と念仏(浄土教)と禅(「摩訶止観」)と密教(「台密」)を選び独自の天台宗を開き、その比叡山から出た法然は「専修念仏」の浄土宗を、その弟子の親鸞は「他力本願」「悪人正機」の浄土真宗を、また栄西は「密禅兼修」にはじまって「坐禅」「公案」の臨済宗を、道元さんは「只管打坐」の曹洞宗を、日蓮さんは『法華経』絶対の日蓮宗を、それぞれ開きました。みな、「選択」の応用仏教です。
 この応用仏教(応用研究)で、ひいき目なしで一番すぐれていると言えるのは弘法大師空海の密教(空海密教)です。一番すぐれているという根拠は、上記の祖師方が「選択」の道をえらんだのに対し空海は仏教思想史全体を「総合」したところです。上記の祖師方の応用仏教は仏教思想史の一部を「選択」する方法、空海のは「総合」する方法。それは空海の代表作『秘密曼荼羅十住心論』によく表れていまして、私は仏教総合学と言っています。
 吉野さんは、科学の研究には(知の)柔軟性とその反対の(真理を突き詰めていく)こだわり性の両方がないとダメだといっておられました。最澄さん以外の祖師方の一仏一経主義は柔軟性に欠けていました。時には独善的にもなり権力者側から弾圧を受けました。反面、空海の密教は包摂性・許容性に富んでいます。
 いずれにせよ応用研究は、吉野さんのリチウムイオン電池もそうですが、世のため人のためになることが究極の目的。空海の密教も究極、「衆生済度」(煩悩に左右され苦の世界に生きる私たち衆生を救う)・「衆生救済」を目標にした応用研究です。その応用のなかで空海はしばしば従来の仏教思想の定理・定説を自己編集で越えています。
 例えば、
  1. 「サトリ」(成仏)というものは、長い修行の果てに得られるというのが仏教思想の定理・定説でしたが、空海は「発心」すれば(人(衆生・凡夫)が生まれながらに心の深層に具えている「菩提心」(サトリを希求する心)を表出すれば)、この身(煩悩に左右されて生きている生身)でも、瞬時に、成仏(仏と一体になること)ができること(「即身成仏」)を説き、成仏の速さ(「速疾成仏」)にこだわりましたが、なぜでしょう。
  2. 「善財童子」(『華厳経』法界品)のように、永遠に近い長い修行の果ての「サトリ」では、それは人(衆生・凡夫)にとってまず不可能であり非現実のものであり無意味であり、「衆生救済」(人(衆生・凡夫)をサトリに導く)という大乗の命題が空理・空論となり現実のものにならないからです。
  3. 「法身」(毘盧舎那仏)は宇宙の真理(法則性)そのものの実在であり説法しないというのが仏教思想の定理・定説でしたが、空海は毘盧舎那仏に人格性を与え大毘盧舎那如来(「法身」大日如来)とし説法は可能としました(「法身説法」)。なぜでしょう。
  4. 空海は、西洋の哲学思想が問題にした「神のコトバ」の領域に入っていました。世界の思想レベルといわれる所以です。その観点から言えば、「救済主」(神の立場)であるべき「法身」毘盧舎那がただ実在するだけでは不徹底で、「神のコトバ」としての「法身」の説法(「法身」が自ら自己の内なるサトリ(自内証、宇宙の真理)を語ること)がなければ「衆生救済」がホンモノにならないからです。(密教は「法身説法」、顕教は「応化身説法」)
  5. 「サトリ」(「果分」)は「言亡慮絶」(コトバの脱落)でありコトバでは説くことができない・言語化不可能(「果分不可説」)というのが仏教思想の定理・定説でしたが、空海は「法身説法」を説き、「サトリ」を言語化することができる(「果分可説」)と言いましたが、なぜでしょう。
  6. 「サトリ」(「果分」)「言亡慮絶」「声字虚妄」で言語化(声字で表示すること)ができないのであれば、大乗の命題である「衆生救済」が現実のものにならないからです。
  7. 従来の仏教では、教理の理解に絵図などを用いることはあり得ませんでしたが、空海は「曼荼羅」を活用しました。なぜでしょう。
  8. 難しい密教教理が言葉では理解できない人(衆生・凡夫)には絵図で視覚説明しなければ、「衆生救済」が現実のものにならないからです。
  9. 従来の仏教は「身・口・意」(「三業(さんごう)」)を説き、人間の身体的な活動・言語的な活動・精神的な活動を言い、善因善果や悪因悪果などの因果応報も「業」(宿業)に付会したにすぎませんでしたが、空海は「身・口・意」を「三密(さんみつ)」と言い、人(衆生・凡夫)の「三密」と仏の「三密」が相応(同調)して一体になる「三密平等」を説きました。なぜでしょう。
  10. 「法身」大日如来と人(衆生・凡夫)とが、「身・口・意」の「三密」で相応しなければ「衆生救済」が現実のものにならないからです。
  11. 空海は「十住心」によって、従来の仏教を含めた仏教総合学を説き、煩悩に左右されて生きている人(衆生・凡夫)でも小乗の人でも大乗の人でも「密教」の世界に心品転昇できることを説きました。なぜでしょう。
  12. どんな心品のレベルの人でも空海から見れば「密教」に受容されるべきもので、「密教」こそが「衆生救済」に最も現実的だからです。
  13. 従来の仏教は利他行と言っても具体的な社会事業に手を差し伸べることは稀でしたが、空海は故郷の「満濃池」や大和の「益田池」や摂津の「大輪田泊」(今の神戸港)などの修築工事(灌漑土木)を指導監督したり、日本初の庶民のための私立学校「綜芸種智院」(教育)を開設・運営したり、いくつもの社会事業にかかわりました。なぜでしょう。
  14. 民衆の世俗の苦難を「仏法」にかなった「世法」(世俗の術)で救わなければ、「衆生救済」が現実のものにならないからです。
 こうしてみると、空海がそれまでの仏教の教義上の定理・定説を超えたわけは、単にそれまでの仏教に対して優位に立つだけではなく、その本意は畢竟「衆生済度」にあったと言っても過言ではありません。吉野さんのリチウムイオン電池のように、モノ・コトの原理(仏教でいう「法」(ダルマ))を応用し、人々を苦から楽に導く(「抜苦与楽))ために現実化したのです。