蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

モノ・カネ・テクノロジーと「人間疎外」

令和4年01月01日
 新年、明けましておめでとうございます。
 今年はまもなく北京で冬季オリンピックですが、コロナ禍のなかで無事に終わるかどうか危惧されます。同時に、この北京オリンピックが、中国国内では習近平主席による専制強権体制の強化やウイグル族・チベット・香港での人権抑圧や台湾併合にはずみをつけ、国際社会では南シナ海や東シナ海の実効支配や、「一帯一路」に象徴される中国巨大マネーによる経済的政治的世界覇権をあと押しするのに利用されることが明白で、その方がコロナ禍よりも深刻な問題です。
 アメリカをはじめとする自由民主体制の国一一一ヵ国が、昨年末オンラインでのサミットに集まり、中国の人権問題をはじめ、南シナ海・東シナ海の実効支配、「一帯一路」による経済的政治的世界覇権、とくにはデジタル通信機器大手ファーウェイの製品による世界の情報通信の独占支配と世界の機密情報の巧妙な傍受など、中国の世界を丸のみする覇権主義的野心に危機意識を共有しました。
 ソ連の崩壊で二十世紀の東西冷戦(鉄のカーテン時代)は終わりましたが、二十一世紀はアメリカ(自由民主)対中国(専制強権)という覇権国家対立の新たな冷戦時代を迎えそうです。両国の間に立つ日本は、さてどうするか、難しいかじ取りを強いられます。これからの日本の政治を担うリーダーは、英語や中国語が堪能で、国際感覚や国際経験をもち、日本の外交防衛に通じた、戦略的でタフな人でなければつとまらないでしょう。単なる党内力学で、例えば菅前総理のような、内政型で国際政治の舞台では無名で存在感のない総理大臣では、日本の国益まで危くなります。
 また、今年は日中国交正常化から五十年。日本は、昭和の初期から大東亜戦争が終わるまで、元満州にはじまり中国のほぼすべてを占領した戦争の罪ほろぼしに、昭和四十七年(一九七二)九月、総理大臣になったばかりの田中元総理が北京を電撃訪問し、国交のあった中華民国(台湾)と断交し、大陸の中華人民共和国(毛沢東主席率いる共産主義の中国)と国交正常化の共同声明を発表し、戦争の賠償を求めない中国に対し日本が資金と技術を供与して中国の近代化に協力することとしました。
 その象徴が上海の宝山製鉄所(山崎豊子『大地の子』で有名に)で、当時の新日本製鉄(現、日本製鉄)が全面協力しました。それまで中国は製鉄の技術がお粗末で、毛沢東時代には「自力更生」をスローガンにして自国生産に励みましたが、日本のような純度の高い鉄と鉄製品が造れませんでした。鉄は近代国家建設に不可欠の建設素材で、高度の製鉄技術は中国にとってノドから手が出るほど欲しいものでした。
 以来中国は日本の資金援助と技術協力によって着々と近代化を発展させ、とうとう日本を抜いて世界第二位の経済大国になりました。日本に対する恩を忘れたような今の中国の横暴ぶりを見るにつけ、日中国交正常化などしなければよかった。田中元総理の日中国交回復は結果として裏目の勇み足、いや大失敗だったとほぞを噛む思いです。日本と戦った中華民国の蒋介石総統は戦後、「(敗戦国日本に対し、中国は)徳を以て怨みに報いる」と言い、同じ戦勝国ソ連のスターリン首相が北海道の釧路と留萌を結ぶ直線の北半分を割譲する主張をしたのに対し、徹底反対して抑え込んでくれたことに今の中国指導部は学んでほしいものです。かつて鄧小平主席が、「最初に井戸を掘った人(日中友好の基をきづいた人)の恩は忘れない」と言い、来日するとかならず東京・目白の田中元総理邸をたずね旧交を温めていたのとはだいぶちがいます。
 中国の統治者たる皇帝は、仁(他への思いやり)・義(利欲を求めない正義・道義・信義)・礼(秩序・マナーを重んじる礼儀・礼節・儀礼)・智(道理をわきまえる学識・博識)・信(ウソのない友情・誠実・言葉・約束)の「五常(ごじょう)」を具現する君主であるべきだと儒家の思想(一般に言う儒教)は教えています。古来からの中国の最高道徳です。今の中国の統治者はモノ・カネ・テクノロジーこそが最高道徳だと錯覚しているようで、「五常」とは真逆の不仁・不義・無礼・無智・不信の道をひたすら走っています。
 半世紀前の学生時代に、日本では「人間疎外」ということがよく言われていました。戦後の高度経済成長がはじまり、それを動かしていたのがモノ・カネ・テクノロジーでした。モノづくりの世界でも、おカネを動かす世界でも、技術の世界でも、やるだけ儲かった時代。深夜の残業はもちろん、土曜・日曜もなく、休むヒマもなく、働くことが美徳でした。
 しかし、やがて疲れがピークになった時、私たちはモノ・カネ・テクノロジーに動かされて消耗している自分、まるで機械の一部のように働くだけで人間らしく主体的に生きていない自分に気がつき、自分たちがつくったモノ・カネ・テクノロジーに逆に使われ、人間性を失っているパラドックス(自己矛盾)を「人間疎外」と言いました。
 もともとは、マルクスやヘーゲルが「人間が自己のつくりだしたもの(生産物)に支配される自己矛盾の状況」を言ったものでしたが、オートメーション工場など機械化の進んだ産業や、東京などのように巨大化・複雑化した大都市で、大きなメカニズムの歯車でしかない存在で、人間性に欠ける生き方を強いられている私たちの状況を言ったものでした。
 しかし、今はそれどころではなく、半導体・デジタル技術による第三次産業革命の時代。自動車はロボットマシーンがつくり、金融・投資から生活用品までコンピュータ制御、技術の世界は電話通信とデータ通信とメール通信と画像通信とプレイアプリとカメラを一体化して片手に乗せました。自動車も新幹線もバスもコンピュータ制御で運転手が要らなくなります。ホテル・旅館や官庁・役所や病院・介護施設、美術館・博物館・体育館・音楽ホール・スタジアム、郵便局・銀行・コンビニなどのフロント業務はAIロボットに代るかも知れません。ますますの「人間疎外」です。
 しかし、今はデジタル技術の便利さを享受している時代ですが、この先文明社会はデジタル化された変化の早い社会の便利さと息苦しさのなかでどう人間らしさを保つのか、それが政治にとっても経済にとっても法の世界でも、モノづくりの世界でもおカネを動かす世界でも技術の世界でも、社会学の世界でも経済学の世界でも哲学・思想の世界でも、情報の世界でも文化の世界でも宗教の世界でも、二十一世紀の大きな課題になるでしょう。解決策は、自然と人情豊かな田舎で暮し人間性を確保しながら、リモートなどのデジタル技術を使った仕事で生計を立てるライフスタイルでしょうか。東京など大都市の人口過密や地方の過疎・限界集落の問題の解決にもつながります。
 昨年末、新型「オミクロン株」の感染拡大の予兆があるにもかかわらず、都内の繁華街では忘年会で盛り上がって大声を出し、深酒し、路上をフラフラ、歩道に横になって爆睡し、ビルの壁にもたれて寝込み、終電に乗りおくれた人たちが駅のタクシー乗り場に長蛇の列という光景が連日続きました。みな大都会の「人間疎外」を生きる人たちで、せめてもの抵抗。酒の力を借りて人間性を回復しているのです。今、田舎暮らしの時代です。