蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

船村徹作詞・作曲「のぞみ(希望)」

令和4年02月01日
二月、如月。すぐ節分・立春です。今年の鬼は、言うまでもなくオミクロンコロナで「鬼は外」。今回のブログは船村徹さんの歌、すなわち「福は内」の話です。
当栃木市には古くから女子刑務所(栃木刑務所)があり、現在の郊外の地に移転する前は当山の近くにあって、小学生の頃は所長さんなどの官舎に同じクラスの友達がいてよく遊びに行きました。刑務所には、明治時代の監獄の雰囲気がただよういかめしい門構えに玄関・事務棟・収容者棟・集会場・作業場・運動場などがあり、私は父の跡を継いで二十八才の時教誨師になり収容者の矯正教育(宗教教誨)をお手伝いしました。現在の地に移転してまもなくの頃思うところあって教誨師を辞めましたが、栃木刑務所の現在は国内最大級の女子刑務所になっています。
私が教誨師を辞めた理由の思うところとは、犯罪を犯して反省・懺悔と更生の日々を送っている人たちに「人としてあるべき道」「高い宗教心」「更生の道」「出所後の生き方」を説くほどの人生経験や宗教体験やことば力や人間力や資格が自分にあるのか、とくに篤志面接には未熟過ぎるのではないか、そもそも人間の根源的な「無明」「煩悩」あるいは「原罪」というレベルでは私も収容者も同じではないか、なのに人生経験も宗教経験も未熟な私が教誨師という仮面をかぶり、深い心の傷や傷ついた人生と闘っている収容者にわかったような説教をしていいのか、もっと人生の辛酸を経験し、もっと深い宗教体験を積んでからでなければ、いい加減な気持ちでこの仕事はできない、と思ったからでした。
ここに紹介する船村徹さんは言うまでもなく、美空ひばりの「みだれ髪」や村田英雄の「王将」や春日八郎の「別れの一本杉」や島倉千代子の「東京だョおっ母さん」や北島三郎の「なみだ船」や細川たかしの「矢切の渡し」など、演歌のヒット曲を数多く世に出した著名かつ熟練の作曲家ですが、超多忙な仕事のかたわら全国の刑務所での慰問活動を欠かさなかった人で、船村さんの栃木の弟子と言われる人(私の若い頃からの友人)の話では、その信条たるや常に「いい加減な気持でやるな」「ちゃんとやれ」で、慰問に同行する弟子筋の演歌歌手たちも真剣そのものだったとのこと。この話を栃木の弟子と言われる友人から聞いて、私は教誨師を辞めた理由がまちがっていなかったと確信したものでした。その友人から数々の船村さんとのエピソードを聴くなかで一番胸を打たれたのが、次に紹介する「のぞみ(希望)」という歌です。この歌は、船村さんが笠松刑務所(岐阜県)の女性収容者のために作詞・作曲して贈った歌ですが、収容者のことを少しわかっている私は涙なしに聴けない歌です(のぞみ [船村 徹] - YouTube のほか、ウェブ上で公開されています)。
 ここから出たら 母に会いたい
 おんなじ部屋で ねむってみたい
 そしてそして 泣くだけ泣いて
 ごめんねと おもいきりすがってみたい

 ここから出たら 旅に行きたい
 坊やをつれて 汽車にのりたい
 そしてそして 静かな宿で
 ごめんねと おもいきり抱いてやりたい

 ここから出たら 強くなりたい
 希望(のぞみ)を持って 耐えて行きたい
 そしてそして 命のかぎり
 美しく もう一度生きて行きたい
出所の日を一日千秋の想いで待つ収容者。目の前のステージで船村さんがギター片手に顔をしかめ涙ながらに切々と歌うこの歌。一番の歌詞の途中から、収容者の嗚咽が止らなくなるとのこと。宗教者の立場からは恥ずかしながら、収容者の心を揺さぶるという意味で、船村さんの歌の力に宗教家の安っぽい説教など足下にも及ばないということです。
加えて、先ほどふれた船村さんの栃木の弟子と言われる友人は、船村さん亡きあと、栃木刑務所でコーラス(合唱クラブ)の指導を行いながら、出所した人を自分が経営する会社に一時預かり社会復帰の援助活動を行っていて、船村さんの「いい加減な気持ちでやるな」を実践しています。さらに平成三十一年(二〇一九)には、船村さんが栃木刑務所の収容者のために作曲した「明日(あした)に夢を」(作詞:岩瀬ひろし)の楽譜を自宅で六十年ぶりに発見し、船村さんの三回忌に合わせて行われた同所の音楽鑑賞会で合唱クラブとともに歌い、NHKテレビ「おはよう日本」などで報道もされました。
船村さんや栃木の弟子と言われる友人から、「意気に感じる」ということ、損得勘定のない「男気」ということ、つまり「男の美学」を、それから音楽や詩の心を動かす力を学び直しました。全国の教誨師や保護司をしている僧侶(宗教者)の皆さんへの警鐘となる話です。