蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

石原慎太郎氏を惜しみつつ

令和4年03月01日
二月一日、作家で参議院議員・衆議院議員そして東京都知事をつとめた石原慎太郎氏が亡くなりました。国家観・戦後憲法(とくに第九条)への疑義・(アメリカに)NOと言える日本・日本という国と日本人のアイデンティティー・日本男子という美学・既成概念にとらわれない考え方など、心情的にシンクロするところが多々あって、蔭ながらその発言や活躍に注目をしていました。
とは言え、作家としての石原氏にはあまり関心がなく、処女作で芥川賞を受賞した『太陽の季節』や『化石の森』『法華経を生きる』『天才』『わが人生の時の時』くらいしか読んでおらず、私には石原作品を云々する資格はまったくありませんが、伝え聞くところによりますと、短編小説の『ファンキージャンプ』という作品に三島由紀夫が、自伝的短編集『わが人生の時の時』に文芸評論家の福田和也が高い評価を与えています。
『太陽の季節』は、戦後民主主義にはまだまだ遠い昭和三十年、戦前や戦争中の価値観が日本社会のすみずみまで支配していた頃、それまでの価値観や既成概念に反抗するかのような若い世代の反倫理と、その背景の自由奔放な思考や行動や風俗を描き、なかんずくまだ男尊女卑の風潮のなかにあった日本女性を解放へと導きました。戦後女性(嫁)が強くなり「家付きカー付きババア抜き」が流行語になったのはそれからでした。湘南の海で奔放に遊ぶ若い男女の姿は、私たち世代にとってはヌーベルバーグ的な作品でしたが、文芸の世界や映画の世界にも「倫理」の問題で衝撃を与えました。時代的な思潮から言えば、当時ヨーロッパを牽引していたマルクスのあとの「実存主義」、とくにフランスのサルトルが言う「主体性」「社会参加」や、カミュやボーヴォアールやサガンなどの作品、そしてフランス映画の影響を感じました。その頃ちょうど、ジュリエット・グレコ、エディット・ピアフ、イヴェット・ジロー、ジルベール・ベコー、シャルル・トレネ、イヴ・モンタンが歌うシャンソンも日本で歌われはじめ、東京銀座七丁目のシャンソン喫茶「銀巴里」では丸山明宏(美輪明宏)や戸川昌子が歌い、三島由紀夫・吉行淳之介・野坂昭如・寺山修司・中原淳一が通い、ラジオややがてテレビでは宇井あきら・芦野宏・高英男・中原美沙緒が日本語訳のシャンソンを歌っていました。石原氏もそうした近代思潮の移り変りのなかで、戦後民主主義の日本とアメリカの色に無軌道・無批判的に染って恥じない日本人という不条理を問い続けたのだと思います。
石原氏はペンの力だけでは事足りず、政治という生々しい現実の世界にも身を投じ、戦後日本への疑義を自ら正そうとしました。石原氏の政治活動をふりかえれば、「国家を変える」と言う意味では国会議員として総理大臣を目指し、憲法改正を成し遂げて欲しかったところですが、私にはよくわかりませんが、なぜか東京から国を変えると言って東京都知事というポストを選びました。この手段が徒労に終わったのか、晩年に再度国会に議席をもち、大阪知事の橋本徹氏と組んで新党を立ち上げたところで石原氏の「国を変える」仕事は終わりました。不完全燃焼、悪く言えば氏の「国を変える」仕事は中途半端だったと思います。極論ですが、あれほどにこだわった尖閣諸島でしたから、初志を貫徹して東京都が買い、ただちに日の丸の旗をかかげて石垣島周辺の漁船と巡視艇のために堅牢な港湾施設と漁業基地を建設してみせて欲しかったと思います。
栃木県民という立場で見た時、石原氏は首都機能(とくに国会機能)の移転問題で反対の立場をとり、栃木県民をがっかりさせた人でした。平成十一年の暮、小渕内閣に対し、国会等移転審議会は、三重畿央地区・岐阜愛知地区・栃木福島地区(栃木県那須地域から福島県阿武隈地域)の三地区に絞られたなかから、栃木福島地区を最高評価とする答申を行い、これに伴って韓国の仁川空港のような国際ハブ空港の誘致構想が今の栃木市藤岡町渡良瀬遊水地と西方町真名子の丘陵地を候補としてもち上がり、栃木商工会議所青年経営者会はその構想の実現化を探りはじめたことがありました。これに先立つ平成五年には、福島県須賀川市近くに福島空港が建設され、東北自動車道と並んで国内交通の空の拠点に目されました。
栃木県の候補地になった那須野が原は国有林が多く、移転費用のうち土地買収費が破格に安い利点がある上、天皇陛下ご一家がひと夏をすごされる那須御用邸のほか軽井沢を思わせる広大な避暑地・別荘地があり、温泉があり、首都圏とも新幹線・高速道路でつながっていて至便であることから、栃木県民は那須地域への国会等移転に大きな期待をいだきました。
ところが、平成十一年に東京都知事になってまもなく、石原氏は「首都機能移転なんてとんでもない、絶対にそんなことはさせない」と独断で強権を発動し、それ以来「国会等移転をふくむ首都機能移転問題」は急にしぼみ幻に終わりました。この問題が進んでいれば、東京一極集中・過密都市東京が少しでも緩和され、地方の活性化にもつながり、今頃はコロナ感染拡大と病床逼迫に悩む東京はなかったと思っています。あの時の石原氏は都知事になったばかりで鼻息が荒かったのだろうと思いますが、大都市東京はいまだに超過密の状態から一歩も抜け出しておりません。迫りくる東京直下型大震災・富士山大噴火の時、東京は都市機能・インフラがすべてストップし被災都民はどうなるのでしょう。東京の一極集中・過密都市東京こそ石原氏が取り組むべき「この国を変える」第一の課題だったのではないでしょうか。生前、墓石に「青嵐報国」と入れるようにと言っていたとのことですが、自らが仕掛けた東京オリンピックを見届けたくらいで日本の現状に満足はしなかったでしょう。「青嵐報国」は道半ばでした。
二月二十三日、天皇誕生日に際し行われた記者会見での陛下のお言葉に、少々違和感をおぼえました。まず、国民の多くから不評を買った眞子さんの結婚問題にふれ「多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています」とされたあと、「皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なことと考えています」と述べられましたが、そうです、眞子さんに何が起きているのか正確な情報がきちんと伝えられないため、状況証拠や二次情報や憶測や流言で発信されたのです。事実関係情報が国民の知る権利の範囲内で宮内庁から出されていれば、状況はちがったでしょう。しかし現実は、秋篠宮家にとって好ましくない眞子さん情報を国民に知らせる考えは秋篠宮家にはなかったにちがいなく、宮内庁との齟齬もしばしばあったようで、言うは易く行うは難しの問題ではないでしょうか。
しかし、眞子さんの問題はそもそも情報の発信に根本問題があったのではなく、宮中の神々に仕える宮家にあって、幼少の時から心身を貞潔に保ち、神奈備と人倫の道を学び、髙い教養と人格性を身につけ、国民の声に真摯に耳を傾け、国民とともにある方だと国民が信じていた皇室の子女が、あろうことか国民の多くが通常の社会倫理観からして眉をひそめるような家庭の子息に執心し続け、皇室の子女である公的立場を放棄し、一個人としての私的な欲情を通したことが事の根本で、皇室の塀のなかから見れば心ない誹謗中傷も、皇室のなかで起きていることを正確に知り得ない国民が、皇室への信頼を裏切られた思いで率直にNOを表明したのです。皇室の場合、事実に基づかない誹謗中傷はやめてくれ、と言われましても、その事実を公表していただけない以上荒唐無稽な無理な注文だということになります。
それから陛下は、「一般論になりますが、他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があると思います」とも言われました。皇后様がご体調を崩されまだ本復しておられない問題が頭をよぎったのでしょうか、しかしそんなことは国民一般よく周知のことで、批判や誹謗中傷によって心や立場を傷つけられる側にも問題ありの場合があること、国民が皇室を批判したり誹謗中傷するのは、国民一般が皇室に寄せる尊敬の念や期待感が応えられていない時、眞子さんで言えば「国民とともにある」はずの皇女がいざとなると国民一般の世論など無視し、皇女のお立場を投げ捨てて一個人として私的な欲情を通す、そういった不条理に対するいらだちや不満や反対の表れだということを見逃しておられます。
どこまで本当か、眞子さんが傷ついてPTSDになったと報じられていますが、この不祥事は眞子さん自ら種をまいたもので、皇女がそのお立場を投げ捨て一個人としてあのように私的な欲情を押し通すのなら、週刊誌やSNSでたたかれるのは今の日本社会では当然です。そういう自覚があのお立場で三十才になった眞子さんになかったとしたら、ご本人の未熟なお育ちと秋篠宮家の子女教育の如何が指摘されても仕方ありません。
それにしても、「一般論になりますが(自分の考えではない)」とわざわざ前置きされたことでわかる通り、聴きようでは「皇室の民事介入」になりかねないご発言の上、少々愚痴っぽく、またお説教がましく、余計な一言に思えました。これは、眞子さんをかばい、週刊誌やSNSすなわち国民一般の言論の自由を間接的ながら公然と批判したと受け取られても仕方なく、控えておくべきご発言でした。昭和天皇は、微妙な問題については超然として「その件に関しては、私は言うのを控えたいと思います」と言われ、やんわりとかわしたものでした。天皇陛下としてのご発言はおのずから、皇太子時代とはちがって余計なことは言わず、むしろ言葉少なであることが望ましく、お言葉多くお話しされることがイコール「国民に寄り添う」ことではありませんので、これからは、昭和天皇のように、お言葉は少ないながら風格で周囲を納得させられるようになっていただきたいと思います。