蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

年頭に当り

令和5年01月01日
七草の 粥に餅なき 傘寿かな
餅のない 七草粥の 味気無さ
餅なくも 入れ歯の老いの めでたけれ
新年明けましておめでとうございます。
 令和五年。西暦二〇二三年。干支(えと)は、卯(う、うさぎ)年。
 恵方(歳神様の方位)は、少し東寄りの南の方角。
卯年生まれの人は、 長所 温厚で才能に恵まれる 愛嬌があり人づきあいよし まじめで実直 まちがいがない 他人にやさしい 学究心旺盛 考えが大きい
短所 理想を追いかけ過ぎるところがある 移り気 習いごとなど途中でやめる 経済観念が乏しい浪費あり やきもちが強い
運気 色情が深く、若い頃それで苦労する 中年よし 晩年に金運の労多い
守り本尊 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)
ご真言 オン アラハシャノウ
今年は、真言宗をお開きになった弘法大師空海上人がお生まれになって一二五〇年にあたるおめでたい年になります。私たち真言宗徒は、宗祖弘法大師を「お大師さま」と言い慣れ親しんでいますが、お大師さまは今を去ること一二五〇年の宝亀五年(七七四)、現在の香川県善通寺市(総本山善通寺境内)でお生まれになりました。幼名佐伯真魚(さえきまを)。父は讃岐国多度郡の郡司佐伯直田公(さえきのあたい たぎみ)、母は同阿古屋(あこや、尊称で玉依姫(タマヨリヒメ))。
母の「タマヨリヒメ」はよく知られた神の名で、お大師さまは神の子「神童」、さらにコトバの発達が早かったので「貴物(とうともの)」と言われました。生まれながらの天才で、奈良の大学寮(明経科、朝廷官僚への出世学科)では中国の古典を優秀な成績で学んでいましたが、十九才の頃突然大学寮をやめて奈良の葛城山・金剛山・吉野山などに入り、修験者となって大自然と一体になる山の修行を重ねました。奈良から紀伊半島の山での修行中に見つけたのが高野山です。
お大師さまはまた、しばしば山を下りては奈良の東大寺や興福寺や大安寺に出入りして『華厳経』や『成唯識論』や『中論』といった大乗仏教の主要な経論を学問的に学び、さらに当時の国際仏教交流センターのようだった大安寺で、おそらくインド僧などからサンスクリット語・梵字・悉曇を習いました。
山から下りたお大師さまは、奈良での学問で知った新しい仏教=密教を学ぶため、中国(唐)の都長安に留学し、幸いに亡くなる直前の師・恵果(けいか)和尚に出会い、インド伝来の正統派の密教の法を授かり、それを真言密教として日本に伝えました。お大師さまは当時の中国語に通じ、インドのサンスクリット語にも通じていました。
帰国したお大師さまは、東大寺をはじめとする奈良の仏教界に歓迎され、さらに新しい都平安京で嵯峨天皇のブレーンとなり、国家鎮護と万民豊樂のため朝廷に協力します。仏教が国家の中枢を動かし、人々の幸福のために祈る仏教になったのです。お大師さまは仏教学者であり国を動かす宗教者でした。たくさんの研究書を残すとともに、日本最初の庶民の子供のための私立学校(綜芸種智院、現在の種智院大学・洛南高校)を設立し、貯水池(香川県の満濃池、奈良県の益田池)・港湾土木(大輪田の泊、現在の神戸港)の技術指導も行いました。お大師さまのそばには、朝鮮半島からきた渡来人の技術者集団・秦氏がいて、協力を惜しみませんでした。その志すところは「済世利人(さいせいりにん)」。世の人々に救いの手をさしのべ、仏の教えにもとづいて利益(りやく)することで、そのお大師さまを心の支えにするのが真言宗の信仰である大師と二人づれの精神、「同行二人(どうぎょうににん)」です。
お大師さまご誕生から一二五〇年、改めて「有難や 高野の山の 岩蔭に 大師は今も おわしますなる」をかみしめています。
お大師さまは、誰にでも生まれながらに仏としての心(菩提心)があり、その菩提心を発起すれば煩悩に生きる身のままで仏になること(成仏)ができると教えられました(「即身成仏」)。サトリを得るまでに長い年月がかかることを前提にしたそれまでの仏教の常識を変えたのです。またお大師さまは、サトリそのものの仏(法身)でサトリを言葉にはしない毘盧遮那仏(『華厳経』が説く宇宙の真理を表わす仏)に慈悲の心による説法(言葉)する能力を与え、大毘盧遮那如来(大日如来)に変身させました。サトリは言葉で言い表わせないもの、というそれまでの常識を変え、大日如来は始めもなく終りもなく、いつでもどこでも、自ら説法していると教えたのです(「法身説法」「果分可説」)。
お大師さまはこの他にも、すべての存在は不生・不滅で、それを象徴する「ア」(アルファベットの最初の音・字)に収まる(「阿字本不生」)、転じてすべての存在は「ア」という言葉から一切が発生する、という言語哲学など、創造的で新しい仏教思想を『三教指帰』『般若心経祕鍵』『秘蔵宝鑰』『即身成仏義』『吽字義』『声字実相義』『文鏡祕府論』『梵字悉曇字母幷釈義』『弁顕密二教論』『十住心論』のなかでいくつも創出しましたが、それらを私は二十一世紀的に次のように約しています。
●大師は、「即身成仏」によって成仏に「高速性」を担保した。
●大師は、「三密瑜伽」(「入我我入」)によって「仏」と「凡夫・衆生」の「双方向性」と「互換性」を可能にした。
●大師は、「重々帝網」によって「ウェブ」「インターネット」「ネット社会」「ボーダーレス世界」を先取りしていた。
●大師は、「即身成仏」によって「クリック」ワーク(瞬時の場面転換)を先取りしていた。
●大師は、「印」や「象徴物」(三昧耶)や「梵字」によって「アイコン」を先取りしていた。
●大師は、「曼荼羅」によって凡夫・衆生が仏の世界に入る「インターフェース」を用意していた。
●大師は、「四種曼荼羅」によって仏尊の「多重のレイヤー」と「互換性」を先取りしていた。
●大師は、「真言」・「陀羅尼」によって「コンピュータ言語」(象徴化された記号言語)を先取りしていた。
●大師は、大日如来という「マザーコンピュータ」と「凡夫・衆生」という端末を高速通信でつないだ。
●大師は、大日如来という「OS」により「如来・菩薩・明王・諸天善神」という智慧と衆生済度の「アプリ」を可動させた。
お大師さまは現在のデジタル文明を先取りしていたのです。
釈尊にはじまる仏教思想史の本流は、原始仏教・部派仏教(小乗)・大乗仏教・密教と 展開しながらインド・中国・日本に伝わり、正統密教の第八祖である弘法大師の真言密教で極って、仏の世界と私たち世俗の世界とが高速・大容量で、多重・多層に結ばれ、ビジュアルされ、国家安穏と万民豊楽を現実化する生きた宗教に変身したのですが、この三国伝灯の仏教思想史の本流を、日本でしか通用しない一仏主義(阿弥陀仏)・一経主義(法華経)・一行主義(坐禅、念仏)というアナログな易行系に仏教史を逆流させ、同時に末法の時世に乗って厭世的で死者供養にもかかわる仏教になったのが平安後期~鎌倉期の新仏教(浄土系・禅系)で、法華系も含めて比叡山(天台宗)の分流でした。