蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

若き血に燃ゆる者

令和5年09月01日
 異常な猛暑が連日続くなか行われた今年の夏の甲子園。神奈川県代表慶応義塾高校の一〇七年ぶりの優勝で幕を閉じました。選手全員、慶応ボーイらしいあかぬけしたさわやかさに加え、全国一にふさわしい高いレベルの野球を見せてくれました。運もあったでしょう。大応援団も話題になりました。応援歌「若き血」の熱唱、私は学生時代の四年間、春秋の早慶戦は負けてばかりで、勝ち誇る「若き血」をさんざん聞かされた一人です。最後にはくやしさまぎれに早稲田側の応援席から「若き血」を歌いひんしゅくを買ったものでした。
 惜しくも準優勝に終った宮城県代表仙台育英高校は、夏の二連覇と今年の春夏連覇がかかっていましたが、あと一歩のところで大偉業達成に至りませんでした。しかし昨年・今年と全国の高校野球児から目標とされ、追われる立場の努力は並大抵ではなかったと思われます。連日強豪校と対戦しこれを退け、よく決勝戦に勝ち上り、慶応高校に負けるとも劣らない堂々たるレベルの野球を見せてくれました。敗れたとはいえ、全国制覇に匹敵する野球でした。強豪校との連戦や試合スケジュールなど、運が味方してくれませんでした。
 昨年夏の甲子園では、仙台育英の須江監督が優勝インタビューで「全国の高校生に拍手を」と言って感動が起りましたが、今年は慶応高校の森林監督の「エンジョイ・ベースボール」が注目を集めました。
 野球のみならず、インターハイレベルの高校の部活競技と言えば、長い間指導者の命令一下すべてが動く「黙ってオレについてこい」の独裁指導で、教育の一環と言いながら、教育とは名ばかりで、指導者の主観的な独裁指導によるものでした。練習中は指導という名の感情的などなり声・叱声・罵声が間断なく続き、選手は指導者の言う通りにしないと、あるいは指導者の言うことができないと、容赦なく鉄拳が飛び、しごきがあり、特訓があり、レギュラーから外されるなどの制裁や見せしめもあり、その有無を言わせぬ指導に耐えて、根性・ガッツを鍛え競技力を伸ばすことが、高校野球で言えば甲子園への道でした。選手の親は親で、自分の子供のことは部活の監督に一〇〇%おまかせで、何があっても一切口出しなどせず、せっせと子供のために、時には仕事を休んでも、応援ほかのお手伝いを進んでやることを当然としていました。このような指導者による主観的・強制的・独裁的なスパルタ指導を批判する声はありませんでしたし、そもそも選手自身もインターハイレベルの部活とはそういうものだと思い込んでいました。昭和三十九年(一九六四)の東京オリンピックで金メダルに輝いた女子バレー(ニチボー貝塚チーム、大松博文監督)の根性バレーは、そうしたスパルタ指導の最高の成功例であり、当時のスポーツ競技の指導者は「あれでいいのだ」と確信を得たものでした。
 然るにこの十余年、大学駅伝の世界に青山学院大学が登場し、箱根駅伝・出雲駅伝・全日本大学駅伝で好成績を維持して強豪校に仲間入りし、原晋監督の選手の自主性を促す指導法が注目を浴びて以来、強制的高圧的独裁的スパルタ教育から脱し、選手自身に自分の目標を考えさせ、その目標達成に必要な食生活やトレーニングや競技練習メニューを考えさせ、実行し、結果を分析してまた練習に工夫を加える、監督にやらされるのではなく、自ら考え、それを実行し、反省し、また考える、そんな指導法が高校の部活レベルでも少しずつ動きはじめました。
 慶応高校はおそらく、もともとそうだったと思われますが、それでも全国一になるのに一〇七年かかりました。それができたのも、私学の雄慶応義塾大学という一流の大学がバックにあり、高校野球の指導においても全学的な支援体制に恵まれ、そもそもが世間から見れば成績優秀の文武両道の選手ばかりで、単に楽しむという意味ではないエンジョイ・べースボールをよく理解できる選手ばかりなのでしょう。甲子園の常連校の、まだまだスパルタ指導から脱皮できない指導者はうらやましいかぎりだと思います。
 優勝インタビューその他で慶応の森林監督がしばしば口にした「高校野球の常識を覆す」「高校野球の新しい可能性が生まれてくれれば」とは、もうスパルタ指導の時代ではないという意味で、勝つこと、ひいては学校の名を全国に知らしめることにこだわり、それを選手に強制し、高校教育の一環である部活本来の目的と意義を逸脱している従来型の指導者への批判でもあります。「エンジョイ・べースボール」とは、勝ち負けという結果の前に、自分で考え、自分から練習し、何かを身につけ、何かを学び、仲間と話し合ってゲームをつくり、勝利をみんなで分かち合う、その感動の体験から自立・自尊と仲間との協調・共存、決めたことや結果への自己責任を養うものです。慶応高校の優勝を機に、ややもすれば公立・私立ともに学校の広告塔としての役割を課せられてきた高校野球が、スパルタ指導や勝利至上主義から脱皮し、人間を育てる教育の一環の本来の姿に戻ることを期待したいと思います。
 以前、日の丸を背負ったオリンピックの水泳選手の一部が「(メダルのためではなく、個人的に)楽しむつもりで参加した」などと言ってメダルを取れなかった結果を言い訳し、それが水泳チーム全体に「自分さえ楽しめばいい」ムードをつくり、競技結果に加えてプール外での行動も、公私混同、国費(国民の税金)で参加する日本代表としての自覚が足りない、税金ドロボウなどと批判されバッシングを受けたことがありました。日本のトップアスリートも指導者もまだまだ未熟な時代でした。
 「エンジョイ・ベースボール」を「野球を楽しんで勝つ」などと安易に誤解してはなりません。慶応高校の勝利は、選手たちが誰よりも苦しい練習を重ねた結果であり、苦しい練習を自ら考えて自らに課し、その苦しい練習によって個々の課題を克服すること(=成長)が楽しかったからこそでした。それだけの学力と体力と精神力をもった文武両道の慶応ボーイだからできたことで、誰にでもできることではありません。慶応高校が優勝した夜、多くの高校野球指導者が「大変な時代になった。慶応のようになるには、これからどうしよう」と頭をかかえたにちがいありません。