蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

怨念と報復の長い歴史

令和5年11月01日
 『旧約聖書』(創世記)によれば、ユダヤ人の祖アブラハムは、メソポタミア南東部カルデアの古代都市ウルで裕福な遊牧民の家に生れました。長じて、父のテラ・甥のロト・妻のサラ(イ)とともにカナンの地(今のイスラエルとパレスチナが同居する地域、以下、パレスチナの地)に移住するためウルを出て、途中古代シリア北部(現トルコ南東部)の都市ハランに止住し、そこで父の死後、「あなたは国を出て、親族と別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記十二:一・二)という神の啓示を受けました。アブラハム家族が神の啓示に従ってパレスチナの地に入ると、シュケムという地で神が現われ「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」(創世記十二:七)と預言しました。
 その後、シュケムから南下してネゲブ砂漠に移住しましたが、やがて飢饉に見舞われ家族はエジプトに避難しました。そのエジプトで美貌の妻が王の妻として召され、そのおかげで裕福な生活を送れましたが、神はエジプトの王に罰を加え、王家に災害をもたらしました。王は自らの非を悟りアブラハム家族をパレスチナの地に帰しました。パレスチナの地に戻ったアブラハムは、カナンの地を自分に、ヨルダンの低地帯を甥のロトに分けました。すると「目を上げてあなたがいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。あなたが見わたす地はすべて、永久にあなたとあなたの子孫に与えます」(創世記十三:十四・十五)という神の預言がありました。今から三〇〇〇年以上も前の紀元前十七世紀、ユダヤ人の祖アブラハムがカナンの地(パレスチナの地)に入稙した「約束された地」の伝説です。
 他方、このパレスチナの地に、紀元前十二世紀頃、東地中海から「海の民」と言われる民族の一部フィリスティア人がシリア南部の海岸に上陸し、カナンの地(パレスチナの地)の今のガザ地区に定住しました。彼らはそこでペリシテ人と呼ばれるようになり、彼らの住む地域はペリシテという語から転じたパレスチナという呼称で言われるようになりました。彼らは次第に内陸部にも進出し既住のヘブライ人(ユダヤ人)と対立をくり返しつつ入植していきました。
 これがパレスチナのはじまりですが、「海の民」ペリシテ人が地中海からカナンの地(パレスチナの地)に渡った当初から、既住のヘブライ人(ユダヤ人)と対立をくり返したことは明らかで、ヘブライ人が神から「約束された地」にペリシテ人が海から侵入してきたという構図です。蛇足ながら、今言うパレスチナ人はパレスチナの地に住むアラブ系住民の総称で、特定のアラブ種族を言うのではなく、当初のペリシテ人でもありません。対立はそのあとも続きましたが、紀元前十一世紀末にはヘブライ人(ユダヤ人)がペリシテ人を制圧してヘブライ王国(イスラエル王国)が建設されました。
 ヘブライ王国はその後紀元前八世紀まで続き、有名なダヴィデ王・ソロモン王の頃に最も栄えました。『旧約聖書』(サムエル紀)には、ダヴィデ王がペリシテ人を打ち破る記述があります。ダヴィデ王はエルサレムを王国の都とし、ソロモン王はそこにヤハウェ神殿を建設しユダヤ教の聖地としました。ペリシテ人は次第に衰退しやがて滅亡しました。そのヘブライ王国は紀元前十世紀に、北(イスラエル王国)と南(ユダ王国、首都エルサレム)に分裂し、北は紀元前八世紀にアッシリアのサルゴン二世に征服され、南は紀元前六世紀に新バビロニアによって滅ぼされ、ヘブライ人はいわゆるバビロンの捕囚となってバビロンに連れていかれました。その五十年後、新バビロニアはアケメネス朝ペルシャのキュロス二世によって征服され、バビロンの捕囚は解放されユダ王国に戻ることができました(出エジプト)。この時ヘブライ人を指導したのが預言者モーセ(モーゼ)でした。しかし故地に戻らない人たちも多く、戻ったのはユダ部族の人たちで、以後この地のヘブライ人はユダヤ人とかユダヤの民と言われるようになりました。
 ユダ王国は以後、次々と周辺の王国に支配され、紀元前一世紀には帝政ローマ帝国(キリスト教国)に服属させられてその属州となりました。その後、紀元後六六年~七〇年の第一次ユダヤ戦争、一一五年~一一七年のキトス戦争、一三二年~一三五年のバル・コクバの乱(第二次ユダヤ戦争)と、三度の反抗・反乱を試みましたがその都度制圧され、完全にローマ帝国に従属する属州になりました。ローマ皇帝のハドリアヌスはまつろわぬユダヤの民のこの地における影響を一掃するため、この地の名をカナンからシリア・パレスチナに変更し、首都エルサレムを破壊し新しい市街地へのユダヤ人の入稙を認めず、逆に排斥しました。この差別・迫害からユダヤ人の地中海周辺などへの離散(ディアスボラ)がはじまりました。
 以後パレスチナの地は長くローマ帝国~東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に支配されましたが、七世紀になるとムハンマド(イスラム教の創始者マホメット)の後継者カリフ(イスラム教団の最高指導者)がアラビア半島・西アジア・北アフリカ東部・カフカス地方・イラン高原を治め(正統カリフ時代)、エルサレムをも征服してパレスチナの地にイスラム教が急速に拡大しました。これに対して、十一世紀に、西欧から十字軍が派遣されてキリスト教王国のエルサレム王国が建設され、エルサレムをイスラム教徒から奪い返しますが、十二世紀末にはアイユーブ朝のサラーフッディーンによってまたイスラムに奪還されるなどするなか、パレスチナの地はエジプトのイスラム系王朝が支配しました。十六世紀になると、今度はオスマン帝国が東ローマ帝国のキリスト教勢力や西アジア・北アフリカのイスラム勢力を制圧し、パレスチナの地を支配してシリアと改名しました。
 十九世紀になり、イギリスの統治下において、ヨーロッパ各地で差別と迫害を受けながら生き延びたユダヤ人の間に民族意識が高まり、パレスチナの地に帰り入植する運動(シオニズム)がはじまり、国際連盟はユダヤ人の国家建設をパレスチナの地に認める決議をしました。然るに第二次世界大戦のさなか、ドイツのヒットラー総統によってユダヤ人迫害と大量虐殺(ホロコースト)が行われ、世界の同情がユダヤ人に集ったのを機にパレスチナの地に帰って入植するユダヤ人が急増し、パレスチナの地からアラブ系の住民(今に言うパレスチナ人)が追い出されて難民になる事態になりました。これがいわゆる「パレスチナ問題」の、怨念と報復の連鎖のはじまりです。
 パレスチナの地におけるユダヤの歴史は実に三〇〇〇年余、イスラム系アラブ住民の歴史は一四〇〇年余。ざっとふり返っただけでも、ユダヤ人にとって「約束された地」は何度も何度もさまざまな異民族・異教徒に占領され、追い出されてはまた戻りの歴史だったことがわかります。すなわちパレスチナの地の奪い合いは、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教のそれぞれの聖地エルサレムがある以上終りがなく、ハマス対ネタニヤフの今の戦闘も過去に何度も起った奪い合いの歴史の一部であり、いったん収まってもまた起る長い長い殺し合いの歴史の一コマに過ぎません。
 日本のメディアは、この長い長い奪い合い・殺し合いの歴史から目をそらし、ただ近視眼的に「人道」などといった平和ボケのヒューマニズムでハマスとネタニヤフの殺戮合戦を報じていますが、自爆テロも厭わない過激なイスラム原理主義と何世代にもわたり世界中で差別され迫害され、無慈悲なホロコーストまで経験したユダヤ人の殺し合いは、とっくの昔「人道」を越えています。「人道」の視座でしかパレスチナを語れない平和ボケの日本のメディアは、「報道ステーション」(テレビ朝日)が報じたハマス幹部のインタビュー発言をどう聞いたでしょう。パレスチナ人の存続のために敢えて死もいとわない殉教の高揚感がありありで、「イスラエルに死を」の激しい口調にはイスラム特有の聖戦の宗教的狂気が見えました。
 あのオスロ合意(理性的外交的な成果)さえも簡単に反故になる憎しみ対憎しみの衝突。人間の理性や言葉が通用しないのですから、当事者以外の国際社会は、誰もが残虐な殺し合いを前に口をつぐみただ傍観するほかありません。国連の安全保障理事会までが理性を失ってむなしい拒否権の応酬をくり返し、せいぜい総会で停戦要請を決議するのが理性の限度です。
 テレビに映るいたいけないガザの子供たちの傷つき血に染まった姿や、死んだ時にすぐに身元がわかるように腕や手の甲に名前を書いてもらっている姿、食料が配られている大型トラックに群がる大人たちのうしろから小さな手で食器を出している姿を見るにつけ、目頭が熱くならない人はいません。爆撃を受けて住いも家族も失くしたパレスチナ人が、海外のメディアに対し大声で「国際社会は我々を守れ、助けてくれ」「イスラエルは極悪非道だ」と叫び訴えるのを見て、何もできない自分の非力を思わない人もいません。しかし国際社会は、一度「人道」的停戦で戦闘が仮に収まっても怨念と報復の連鎖は止まらないことを知っています。
 畢竟、この長い長い「パレスチナ問題」は「人道」上の問題ではなく民族・宗教のアイデンティティーの問題で、その解決には双方の民族和解及び宗教承認が絶対条件になるはず。それには、ユダヤ教とイスラム教の聖職者・宗教指導者の宗教的和解がなければなりません。それを仲介し説得するのはバチカンの仕事、ローマ法王の役務です。ヤハウェ(ユダヤ教)もアッラー(イスラム教)もゴッド(キリスト教)も根っこは同一の「神」なのですから。必要なら仏教からダライ・ラマ法王が加わるのも一つです。法王は中国のチベット侵略・チベット人迫害・ジェノサイド(民族浄化、言語・宗教・文化等におけるチベット人の中国化)による難民ですが、仏教の教えに基づく非抵抗運動を長く続けています。非抵抗運動と言えば、インドのガンジー首相がそれによってインドをイギリスの植民地から独立させたことで知られていますが、ヒンドゥー教や仏教を奉ずる東洋の多神教民族には、暴力に対して暴力で報復せず、血の犠牲をじっと我慢し、あくまでも平和に徹する知恵があります。
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 谷村新司さんが亡くなられました。アリス時代の曲には心が動きませんでしたが、その後の「昴」「いい日旅立ち」「サライ」の三曲は日本のポップス界を代表する名曲で、カラオケで私も好んで歌いました。無味乾燥で魂のない今のJ-POPなど私には雑音や騒音にしか聞こえませんが、谷村さんの三曲は心に響くホンモノの歌で、ふといっしょに口ずさみたくなる名歌でした。歌もさることながらその人柄も味のある方でした。ちょっと早いご逝去ですが、谷村さんは亡くなられても、名曲はこれからもずっと歌いつがれるでしょう。歌と笑顔でいつもなごませてくれた谷村さんに感謝しつつ、至心に合掌してご冥福を祈らせていただきます。