蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

歓喜に寄せて

令和5年12月01日
  1. ■ベートーヴェン 交響曲「第九(合唱付)」第四楽章 合唱の冒頭、ベートーヴェンの挿入句

    O Freunde, nicht diese Töne !
    Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere.

    おお、友よ、この調べではない。そうではなく、もっと心楽しく歌いはじめよう、そしてもっと歓喜あふれて。

  2. ■同、合唱「歓喜に寄せて(An die Freude)」(シラー作詩)の冒頭

    Freude, schöner Götterfunken,Tochter aus Elysium,Wir betreten feuertrunken.
    Himmlische, dein Heiligtum !
    Deine Zauber binden wieder,Was die Mode streng geteilt; Alle Menschen werden Brüder,Wo dein sanfter Flügel weilt.

    喜びよ、美しき神々の火花よ、エリジウム(ギリシャ神話の冥界の楽園「エーリュシオン(エリシオン)」、神々に愛された英雄たちの魂が暮す所、ホメーロスの『オデュッセイア』では永遠の平和を手にする所)からの娘よ、私たちは火花の炎に酔い、天なるあなたの聖地に踏み入る。
    あなたの魔力が元のように結びつける、時の流れが厳しく分け隔てたものを。全ての人々は兄弟になる、あなたの柔らかい翼が滞る所で。

  3. ■同、途中

    Seid umschlungen, Millionen ! Diesen Kuss der ganzen Welt ! Brüder, über'm Sternenzelt Muß ein lieber Vater wohnen.

    抱きしめられなさい、幾百万の人々よ! このキスを全ての世界に! 兄弟たちよ、星空の向うに愛すべき父(神)が住んでいるにちがいない。
毎年、年末になると、全国のコンサートホールで奏でられるベートーヴェンの交響曲「第九(合唱付)」。その第四楽章で歌われるフリードリヒ・フォン・シラーの「歓喜に寄せて」(通称「歓喜の歌」)は「人々はみんな兄弟」だと訴えています。
一九六四年の東京オリンピックの際は、当時東と西に分かれていたドイツ統一選手団の選手が金メダルに輝いた時、国歌の代りにこの「歓喜の歌」が演奏され、ベルリンの壁が崩壊した一九八九年の年末には、レナード・バーンスタインがかつてドイツを東西に分割したアメリカ・ソ連・イギリス・フランスから演奏家を集め、混成オーケストラによって「第九」を奏で、翌年のドイツ再統一の際はライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団が祝典曲としてこの「第九」を演奏しました。それ以後、欧州評議会は「歓喜の歌」を「欧州の歌」とし、EUも統一の象徴としています。イスラエルもハマスも、「イスラエルに死を」「アメリカに死を」を叫ぶハマス支援のアラブの戦士たちも、この「歓喜の歌」(「人々はみんな兄弟」)を聞き、ヘブライ語やアラビア語で歌い、それぞれヤハウェとアッラーの神に不戦を誓い、心に平和を持ち、敵がい心を捨て、報復の連鎖を止めてもらいたいものです。ヤハウェもアッラーももともと同一の唯一創造神で、復讐・仕返し・戦闘・殺戮の神様ではありません。
シラー(一七五九~一八〇五)は、ゲーテと同時代の、ゲーテと並ぶドイツの文芸家・詩人・思想家で、彼が求めた精神的「自由」はドイツの国民を大いに啓蒙しました。さらにゲーテとも親しく交わり、カント哲学の研究者でもあり、哲学者のヘーゲルやフィヒテ、詩人のヘルダーリンや文学・哲学のシュレーゲル兄弟にも影響を与えました。そのシラーと親交を続けたベートーヴェンは、シラーの「歓喜に寄せて」に早くから着目し、自分の楽曲に活かすことを考えていました。
時代は、フランス革命でルイ十六世の絶対王政が崩壊し、市民を長く支配した貴族や領主や聖職者が否定され、市民の人権や自由が謳われる一方、ナポレオンが出て革命後のフランス市民社会の混乱に干渉する周辺国を制圧する時代。ヨーロッパに自由と民権の明りがさしはじめた時代。シラーにもベートーヴェンにも、絶対権力ではない市民の人々との連帯・共感・共同の喜び、市民の時代の到来の歓び、聖職者の権威から解き放たれた父なる神への歓喜があったのでしょう。ベートーヴェンは、周辺国の干渉と戦うナポレオンに共感し、ナポレオンのために交響曲第三番「英雄」・ピアノ協奏曲第五番「皇帝」を作曲しています。「第九」の「歓喜の歌」はまさにヨーロッパに到来しようとしている市民社会への「歓喜の歌」であり、ベートーヴェンがその時代に贈った市民連帯の讃歌です。ヨーロッパの人々はこの「歓喜の歌」(「人々はみな兄弟」)を聞き、あるいはそれを共に歌い、血なまぐさい革命の暴力に終止符を打ちました。ヨーロッパの理性です。
この理性がイスラエルにもハマスにもないのです。あるのは「やられたらやりかえす暴力の連鎖」「永遠に終らない復讐の殺し合い」。イスラエルによる爆撃で幼い子供を失くしたパレスチナ人が、取材中のテレビクルーに向って「子供は何も悪いことをしていないのに」と人道的に泣き叫んでも、理性を越えたネタニヤフやハマスの狂気には通じず、ユダヤ教の聖職者にもイスラム教原理主義の聖職者にも幼い子供の犠牲を悼み、それを止める崇高な宗教心情がないと見えます。四日間の戦闘休止・人質解放など国際社会の批判をかわす一時的な人道に過ぎず、これが終了すればイスラエルは特殊部隊の「ニリ」を動員してでもハマス幹部を追いつめて殺害し、ハマスを事実上無化する最終決戦に踏み切ります。ハマスはそれに対し何年でも闘うと言明しています。この理性を越えた狂気対狂気の対決は、いくらガザ地区のパレスチナ住民が犠牲になって泣き叫んでも、本質が変わりません。双方の宗教指導者が「やめよ」という理性を表明しないのですから。
ならば、この年末ベルリンフィルやウィーンフィル、ボストンフィルや日本フィル、それに世界中の声楽家がエルサレムに集結して「第九(合唱付)」の大演奏会を行い、それを全世界にテレビ・インターネットで同時中継し、世界中が「人々はみな兄弟」を歌ったらいかがでしょう。イスラエル人もパレスチナ人もみな兄弟の歓び・殺し合いのない平和の歓びをかみしめる第一歩になれば、まさに音楽に国境なしです。