蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

閑話休題

核家族世代の老後

令和7年11月01日
 都会の片隅で、独り暮らしの高齢者が、真夏でもエアコンをつけず、決して豊かではない生活環境で、老後さびしく孤独・孤立を生きているのを、この頃テレビがよく取り上げます。この高齢者の独り暮らしの問題は、決して東京などの大都会ばかりでなく地方の市町村でも同じです。長年連れ添った夫や妻に先立たれたり、熟年離婚に至ったり、子供は同居せず、これといって訪ねてくる人もいない、一日中独りぼっちの毎日。出かけるところと言っても通院の病院かスーパーくらい。それも運転免許証を返上すれば思うにまかせず、不便きわまりなし。
 上野千鶴子という変な大学教授が「おひとりさま」を勧めるシリーズの本を書いたことがありました。その彼女、歴史学者の色川大吉氏と老齢結婚し、口で言うことと現実にやることがちがうと世間の笑い物になりましたが、高齢者の孤独・孤立の問題は「おひとりさま」などと茶化せる問題ではなく、戦後の日本人のライフスタイルや家族制度にかかわる深刻な社会問題です。以下、同じく高齢者である私の私見を少し述べておこうと思います。
 高度経済成長期に「家付き、カー付き、ババア抜き」という言葉がはやりました。親とは別暮らしの次世代核家族を象徴する流行語です。その核家族の当事者と言えば戦後のベビーブームで生まれた「団塊の世代」とその前後世代で、私の少し後の世代。男女平等の民主教育で育ち、自由恋愛を楽しみ、結婚適齢期には町はずれや高速道路のIC付近にひっそりたたずむラブホテルに市民権を与え、できちゃった結婚を恥ずかしいと思わず悪びれもせず、結婚後は、多少見栄もあってか、大都市の近郊に夢のマイホームをかまえ、マイカーを買い、週末には妻や子供とドライブや郊外レストランに出かけ、子供はせいぜい二人まで少なくして高学歴に育て、教育費のために妻もパートに出る共働き世代。マイホームもマイカーも借金、子供の学費もあるいは借金、自分の月収(身の丈)を越えても消費(=浪費)を美徳とした借金世代です。
 しかしこの核家族、つまりはアメリカンデモクラシーのはきちがえでした。戦後の民主主義や自由や個人尊重をはきちがえ、日本古来の伝統である三世代家族の「家」や親から自由になることが戦後のライフスタイルだと勘ちがいし、嫁は姑を遠ざけて親しまず母とも思わず、人によってはババア抜きを結婚の条件とし、戦後の西欧文明は新しくて善であり、日本の伝統は古くて悪だと決めつけたのです。それが「団塊の世代」とその前後世代に共通したアイデンティティーで、その生き方は、よく言えば自由で個性的で自己主張が強く革新的、悪く言えば自己中心・伝統放棄・心情左翼と言っても過言ではありません。
 核家族はまた少子化社会の原因でもあります。子供はマイカーの座席数と教育費の都合でせいぜい二人まで。ベビーブームで生まれた世代が子供二人以下では、少子化社会になるのは当然です。その子供たちも年頃になれば自立して親から離れ、皮肉にも核家族が核家族を生み、親は核家族どころか夫婦二人きりに。夫婦のうちどちらかが欠ければ、かならずしも豊かではない生活環境で、一人さびしく孤独・孤立を生きる独居老人。気がつけば、長期住宅ローンが終った頃にはマイホームも老朽化し、実家の親から離れて築いた核家族が、老後は自分に孤独・孤立を強いる結果に。自業自得と言うべきでしょうか。
 さだまさしの「風に向って立つライオン」という名曲に「どうやらこの国は、どこかで道をまちがえたようです」という一節がありますが、まだまだ近代化前のケニアでは、患者が身体に病気があっても目が輝いているのに、近代国家日本の東京では、豊かな近代文明に浴している人々の目が輝いていない、経済大国になったもののお金に追われ生きることに疲れているのではないか、つまり戦後の生き方に問題があるのではないか、という日本の現状批判。私には核家族批判にも聞こえます。
 どこかで道をまちがえた核家族世代から日本伝統の家族主義(三世代家族)が消え、「家」という生活文化が崩壊していきました。皮肉にも、そうした世の中で子供をあてにできず、他人の世話や介護をあてにして孤独・孤立を生きています。しかし介護施設に入れば、たちまち老後資金は底をついてしまいます。核家族は失敗でした。若い夫婦が共働きであるなら、同じ敷地に住む親夫婦が乳幼児~学童期の孫をみる、それなら高齢の親に孤独・孤立はなく、むしろ若夫婦の補助者になります。この三世代家族がいかに経済的にも合理的か、家族のあり方や孫の育ちにとっていかに健全か。若い世代が経済的に容易ではない今、若い世代の右傾化が目立つ時代、もう心情左翼の核家族の時代ではありません。