蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

当山に眠る孤高の日本画家 田中一村

■奄美の旧跡
<島での一村を偲ぶ>

1、奄美へ

 新天皇が即位されてまもなくの5月9日~10日、田中一村という稀代の天才日本画家が眠る寺の住職として長年の懸案であり念願だった奄美の一村旧跡への訪問を行い、各処で瞑目合掌し、島での一村を偲んだ。
 一村が亡くなってから早や40年を過ぎ、遅きに失した感は深いが、これまで何度か計画しては多用で断念。生誕110年の昨年もホテルや案内タクシーの予約までしたのだが、計画倒れに終わっていた。それがやっと実現したのである。
 前日の8日鹿児島市に入り、翌9日、朝から知覧の「知覧特攻平和会館」で大東亜戦争末期の沖縄戦で散った若き特攻隊員に合掌し、その辞世の一つ一つに目頭を熱くした。
 午後2時45分、JAL3733便で雨上りの鹿児島空港を発ち、定刻3時40分、雨の奄美空港に到着。そぼ降る雨のなか早速「田中一村記念美術館」へ。ところが、奄美到着早々思わぬことが起きた。
 乗ったタクシーの年老いた運転手が「田中一村記念美術館」がわからず、無線で営業所に聞く始末。「田中一村記念美術館」は空港に近い「奄美パーク」にあるのだが、最初からいやな予感がよぎった。運転手は美術館だけでなく一村のことも知らないようで、話しかけても「田中」の「た」も「一村」の「い」も口にしなかった。車内はまるで歓迎されざる客が乗っているような雰囲気で、「ダメだこりゃ」と思い妙な拒絶感にいらつきながら黙って後部座席に身を埋めていた。

2、「田中一村記念美術館」

 以前は奄美空港だった広大な「奄美パーク」のなか、美術館前のタクシー発着所まで学芸員の前野耕一さんが雨傘を2本(私と家内の分を)持って出迎えてくれた。今回の奄美行きに際し、現地情報も含め一番お世話になったのが前野さんである。

田中一村記念美術館
田中一村記念美術館
田中一村記念美術館
田中一村記念美術館

 早速、前野さんの案内で館内を一巡、ほぼ何度かは見た作品だったが、初見のものが2~3点あった。ひと通り見終ってしばし前野さんと歓談をしながら感慨にふけった。実は、この美術館ができる頃、栃木でも一村の絵の蒐集と一村作品を常設展示する美術館建設の要望が高まっていた。「奄美の飛行場跡地に田中一村のための美術館ができるらしく、しかも鹿児島県が4億をかけて一村作品を買い集めているらしい」とのウワサ話が流れ、一村に心を寄せる私たちは、一村の生誕地でありながら財政規模が県とはちがい栃木市では何もできないことに唇をかんでいたのである。

 私などは、お金のために絵を画かないことを信条としていた一村の絵が、離島の観光振興策に利用されることに批判的だった。一村が魂を込めて画いた絵が記念切手になったり焼酎のラベルになったり、商業化されることを危惧した。一村が何と言うか、多分烈火のごとく怒るだろうと思っていた。しかし、時が経ち、実際に美術館を見てみると、まずは一村作品が海外などに散逸することを防ぎ、また作品の保存・管理のためによかったと思うようになった。
 昨年大規模な「田中一村展」をやった佐川美術館(守山市)の学芸員さんにも話したことだが、大矢鞆音さんという一村研究の第一人者のような、一村を専門的に語り継げる次世代を養成することが急務だということを前野さんにも伝えた。是非、一村作品を所蔵する美術館の学芸員間で一村研究のネットワークをつくってもらいたいと思う。

 タクシーを呼んでいただき、宿泊先のホテル「ティダムーン」に向う。このタクシーの運転手も、一村の美術館に客を迎えに来ながら、ホテルに着くまで一言も一村のことを口にしなかった。有名な一村の美術館があり、そこに客の送迎で出入りをしていても、一村のことをおそらく知らないのだろう。それがおそらく奄美の日常で、奄美に来ても島の人と一村を共有できないことを感じた。

3、「本茶峠」

 翌10日朝、いろいろお気づかいいただいた星加さんはじめホテルの皆さんに見送られ、予約していたタクシーでまず「本茶峠」(島では「ふんちゃとうげ」という)に向う。港のある名瀬と奄美空港や「田中一村記念美術館」のある笠利町や龍郷町をむすぶ旧道の峠で、一村がスケッチブックを脇に抱えてよく往復したといわれている。
 季節としては一番いい時だと言われ期待していたが花らしい花はなく、クワズイモやソテツやシダやビロウ樹やガジュマルなどの亜熱帯植物が生い茂っていた。途中、ルリカケスではないが珍しい鳥にも出会った。車とは2度しか会わない静かで空気のいい「本茶峠」だった。

本茶峠
本茶峠
本茶峠 クワズイモ・桜の木
本茶峠 クワズイモ・桜の木
「本茶峠」の道は名瀬の町に下りていく。
タクシーの運転手は、田中一村の旧跡に通じ、なかなか気が利いていて、まず大熊集落の方に向い、徳洲会病院が右前方奥に見える丁字路交差点の先を左に入って車を停めた。その交差点のところに一村が通っていた理髪店があり(今は戸閉め?)、ある時一村がいつも世話になっていると言って絵を持参し寄贈しようとしたところ、理髪店の主人は一目で素人の絵ではなく画家の絵だとわかったのか、「そんな高価なものをいただくわけにはいかない」と固辞したら、一村は「それなら」と絵をその場で破り捨てたという、土地に伝わる話を聞かせてくれた。
本茶峠
本茶峠

 事の真偽はわからないが、その話を聞いて私は島における「一村気ちがい説」を思い出した。一村はその行状や発言や姿かたちから島の人になかなか理解されず、一村は一村なりに島の人の理解を得るべく近づくのだが避けられたり拒否されたりで、日頃は親しくしている理髪店の主人にさえ素直に絵を受取ってもらえず、感謝の気持ちが通じないはがゆさやそのいらだちがわかるような気がした。一村にしてみれば「そんな高価なものを」と遠慮・辞退されることは「拒否」されていることなのである。
 島での一村は、死して後、出版物やテレビ番組を通じて美談仕立てで伝えられているが、現実の一村は決して島の人から理解され歓迎されてばかりではなかったのではないか。そうした現実やネガティブな側面は、私的にはかなり確度の高い心証なのである。
 多分、島は決して一村にやさしくはなかった。空港から乗ったタクシーの運転手が「田中一村記念美術館」を知らないと言った時、私の胸をよぎったいやな拒絶感はこの理髪店の主人に絵の受け取りを辞退された一村の気持ちとどこか通じる。

4、「終焉の家」

 今は奄美市名瀬となった旧名瀬市の有屋の北東部集落が自然林と接するところに、移築されてしばらくになる「終焉の家」がある。16年間慣れ親しんだ有屋の借家が区画整理で解体されるため、一村は名瀬和光町の古い借家に移住したのである。その家に引っ越して約10日後の昭和52年9月11日、一村は夕飯の支度中に倒れ、誰に看取られるでもなく不帰の客となった。
 一村の死後、「終焉の家」は近くの有屋川沿いの住宅地に移築されたが、再度有屋の今の場所に移築されたのである。没後40年を過ぎ、「終焉の家」は老朽化が激しく倒壊の危険すら感じる。聞けば、島の「田中一村会」が所有し管理しているが、会員各位も高齢になられているという。しかしこのまま放置はできまい。建て替えなどの計画があれば資金協力したい。

終焉の家
終焉の家
終焉の家
終焉の家

 帰り際、タクシーの運転手の機転で、「終焉の家」の下の泉さん宅に上らせていただき、一村が画いたというご家族の鉛筆画を見せていただいた。家の床の間には、大きなソテツの墨絵のレプリカが飾られていた。栃木市から来た一村が眠るお寺の住職ということで親切にしていただき、お名前もうかがい、サイトに公開する許可もいただいた。このお宅にも何度かNHKが来ているそうである。

5、16年間住んだアトリエ兼住居の借家

 この隣人の家と「終焉の家」との間の道を少し辿ると、角に「VILLA ISSON」という2階建てのアパートが見えてくる。向って左の角に有屋の「とね(徒根)屋」がある。「とね屋」は琉球の文化でいう「ノロ」(巫女)が住む家を言い、その敷地を「宮」と言う。「とね(徒根)」の「徒」は仲間、「根」はモノゴトの根源。モノゴトの根源(自然(神)の恵みや幸)を仲間で共有する、という意味である。
有屋の「とね(徒根)屋」
有屋の「とね(徒根)屋」

 昭和36年12月、一村は「和光園」の職員宿舎を出て「和光園」職員の泉武次氏が所有する粗末な借家に移り住む。ここをアトリエを兼ねた住居とし、早速庭先に家庭菜園を作り自給自足をはじめる。先ほどの泉さんは、この泉武次氏の自宅ではないかとあとで気づいた。
 旧住居跡といわれる「VILLA ISSON」前の道路に立ち、一村の奄美時代の作品がこの場所で画かれたことを想像し鳥肌が立った。この場所で一村は何を感じ何を考え、数々の絵を画いたのか。一村の画業にとって闘いの場であったにちがいない。何・誰との闘いであったか。絵描きの良心との闘いであり、生活苦との闘いであり、中央画壇とりわけ東京芸大時代の同級生の画風・画境との闘いであったか。
 一村は奄美の生命力に満ちた自然を描写の外なる対象にはせず、自然のなかに自ら入り、自然と一体となって、生きている大自然の息づかいや生命の営みを画いたのである。描かれた亜熱帯植物や蝶や海の波や熱帯魚の躍動感・生命感は、敢えて言えば、東京芸大の同級生で、当時その作品に破格の値段が付けられていた東山魁夷の森や林や海の波の躍動感・生命感のなさと対照的である。何かで読んだことがあるが、ある時一村が浜辺に波が押してくる絵を評して「この波の流れは逆さまだ」「こんなでたらめを画いていいのか」と言ったとか。これを私は東山魁夷が奈良の唐招提寺に納めて話題になったあの襖絵のことではないかと邪推している。
 大矢さんは一村の奄美の絵を「南の琳派」だと言う。私は、自然との一体、主客の一体の心境を空海の「二而不二」の密教と重ねたい。一村の絵は、日本画壇の伝統や常識ではわからない、つまり一村にしかわからない、「秘された」「密なる」絵、つまり密教画である。

16年間住んだ借家の跡地。アパート「VILLA ISSON」前の道路
16年間住んだ借家の跡地。
アパート「VILLA ISSON」前の道路
16年間住んだ最後の頃の借家
16年間住んだ最後の頃の借家

6、「一村橋」と終焉の地

 旧住居跡から和光バイパスに添った有屋川べりの道に出て有屋川にかかる「一村橋」に向う。
 ほどなく思ったより大きな「一村橋」に到着。

生前一村がよくここを散歩で通ったのであろう。
 のどかな田園の遊歩道とそれにかかる橋である。
 この「一村橋」から直線の道が和光バイパスに向って延びている。橋からは50メートルほど先の右手の空き地(大島自動車検査登録事務所の敷地?)のなかの道沿いに「終焉の家」があった。
 今はコンテナやプレハブなどが置かれ、ひと気もないこの空き地のどこかで一村は亡くなったのだ。
 一村らしいといえば一村らしい、孤独死である。
一村橋(いっそんばし)
一村橋(いっそんばし)
終焉の地
終焉の地
終焉の地
終焉の地

 私は「一村橋」のたもとで、しばし思いにふけった。
 失神昏倒している一村を誰が発見してくれたのか、急を聞いてどんな人たちが駆けつけてくれたのか、誰が警察や消防署に通報してくれたのか(孤独死の場合検屍・関係者の事情聴取が必要、また千葉の親族には警察から知らされたと聞く)、遺体の事後処理や葬儀の世話をしてくれたのは誰か、葬儀はどんな風に行われたのか、どんな人たちに見送られたのか、親族は葬儀に行けなかったと聞くが遺骨はどのように保管されたのか、等々。
 さらに、一村の死は奄美の親しい人たちにどう受け止められたのか。稀有な天才画家の惜しむべき死としてか赤貧を恥じない純粋で意志堅固な絵描きの死としてかそれとも気ちがいの死としてかやっかい者の死としてか。
 それにしても、田中家の菩提寺である当山に何の連絡も相談もなく、菩提寺の許可なく、一村の葬儀導師を勤めた(あるいは回向を行った)のは誰か、同時に勝手に「専精院釈浄絵居士」という浄土真宗の法名を付けたのは誰か、伝え聞く文化サロンのような談論の仲間だった某師か、それとも某師に頼まれたかもしれない同宗派の(名瀬・東本願寺?の)僧職か、等々。

 お寺(僧職)の世界では、(宗派の異なる)別なお寺の檀家の葬儀導師を、その菩提寺に無断で引き受けたり、法名を付けたり、布施や法名料を受け取ることは、あってはならない禁じ手で、道義に反する。まともな僧職なら、その菩提寺から頼まれない限り自分勝手にピンチヒッターを引き受けない。ところが、奄美の僧職はそれをやった。島の僧職は、お寺(僧職)の世界の道義も知らないのか、知っていてやったのか。もしそうなら悪質である。もしかして、親しい関係にあった一村から「私が万一の時は万事頼む」とでも生前中に言われ、それなりの金銭(前納布施)を受け取っていたのかもしれない。だから、当山には連絡どころかそれを知られたくなかったのではないか。まともな僧職なら、そういう時には、「そのお金は本来菩提寺に納めるべきもので、菩提寺の了解なしには受け取れない」と申し出る。

 この奄美の僧職の非常識な行為について、私は長く自重し沈黙してきた。しかし、一村没してすでに40余年、私も住職50年、まもなく喜寿である。また一村の出版物にはしばしば二つの法名が紹介されていて、時折「一村には二つの戒名があるのか」という問い合わせがあり迷惑もしている。なので、この機会に当山の立場を以下に明らかにしておく。

  1. 一村の(正式な)法名は、菩提寺(真言宗)住職の私が付けた「真照孝道信士」である。
     田中家は古くから当山の檀家で代々「院号」の家系なのだが、赤貧に甘んじ虚飾をきらった一村の心の奥を想い、敢えて字数の多い法名にしなかった。当山に眠る一村のお墓(墓誌)には「真照孝道信士」と刻まれている。法名の意味については「略年譜」をご覧いただきたい。
  2. そもそも法名(あるいは戒名)というものは、先祖代々菩提寺の住職が遺族もしくは代理の親族の要請により檀家の死者に授けるものであって、どこかの僧職が菩提寺住職をさしおいて勝手に付けることはできない。
  3. 奄美で付けられた「専精院釈浄絵居士」という浄土真宗の法名は、菩提寺に無断で、あるいは内緒で付けられた不法な法名で無効である。当山の過去帳にもお墓にも記されていない。
  4. 一村の訃報の知らせは菩提寺の当山にどこからもなかった。警察から急を知らされ気も動転の親族に当山に知らせる義務を求めるのは酷である。ならば当山に連絡すべきは誰であったか。ずばり葬儀の導師あるいは回向を頼まれた僧職(一村と親しかった某師か、某師が頼んだかもしれない(東本願寺?の)僧職か)である。
     栃木に菩提寺がある一村の場合、葬儀導師あるいは回向を頼まれた僧職はまず菩提寺(当山)に連絡を入れ、導師あるいは回向を頼まれたのだが、宗派がちがうのでよろしいかどうか確め、よろしいとなったら位牌に書く法名はどうするか、急いで当山(真言宗)で法名を付けそれを白木の位牌に現地で代筆するか、それとも俗名のまま回向するか(この例が圧倒的に多い)、当山住職の指示を仰がなければならなかった。
  5. にもかかわらず、奄美の僧職は当山への連絡・相談を怠り、ピンチヒッターの立場もわきまえず、一村に浄土真宗の法名を勝手に付けたのである。菩提寺住職の私から言えば言語道断の越権行為で、僧職として無節操・不道徳。その見識・教養・職業倫理の程度を疑う。
  6. 親族は現地の事情がよくわからないまま、またすぐには飛んでいけない事情もあり、某師に(一任するかのように)「よろしく」と言ったかもしれない。もしそうであっても、導師や回向や法名授与の代行が認められたわけではない。某師や某師が頼んだかもしれない(東本願寺?の)僧職には、当山住職が頼まない限り、当山檀家の田中家当主である一村の葬儀導師を勤めたり、回向をしたり、法名を付けたり、布施や法名料を受け取る資格はないのである。
  7. もし奄美の僧職が一村からそれなりの金銭(前納布施)を生前に受け取っていたとしたら、法名料込みだと思ったに相違ない。その時点で菩提寺への連絡相談など頭から飛び、その思い込みで「院号」の法名まで付けたのだろう。もし完全無料奉仕だったら、「院号」の法名は付けず俗名のまま葬儀が行われただろう。
  8. それにしても一村は、空手形のような法名で見送られた。送別の儀は島のやり方で行われたにちがいない。しかし一村は奄美には埋葬されず、生まれ故郷の田中家のお墓に帰った。

 思うに、奄美では仏教よりもまだまだ自然宗教の風習が根強く、そうした島独特の宗教習俗の環境のなかで僧職の存在感はさほどではなく、人々からリスペクトもなく、頼まれれば唯々諾々と島のローカルルールに従って導師に化け、「おがんでなんぼ」なのかもしれない。当該の某師や某師が頼んだかもしれない僧職も、そう思いたくはないが、そうかもしれない。僧職として資質や人間性を疑いたくなるような伝聞も消息筋から耳に入っている。

7、国立療養所「奄美和光園」

 一村の旧跡のなかでも是非ともたずねてみたいこの施設は国立のハンセン病専門の療養所で、敷地内に立ち入って写真撮影するにはおそらく予め許可が必要だろうと思い、事前にそれを問い合わせたところ、責任者に準ずる立場の人(名前は伏せる)からFAXで許可申請書が送られてきて、添付資料には「(とりあえずFAXで申請し)原本は当日持参されてもけっこう」といった趣旨の説明書きがあった。ということは、これでもう許可なのかと思ったが、まだ先のことなので念のため原本を封書でその人あてに送り、正式な許可の返答を待った。ところがいつまで待っても許可の返事はなく、ダメなら何か言ってくるだろうと思い「和光園」を直接たずねた。

 タクシーを邪魔にならないところに停めさせ、正面玄関を入ってすぐ右の受付で、念のため持参したFAX(先に責任者に送った申請書)を提示し、目的である旧職員宿舎跡の写真撮影許可を求めた。その件は2階の事務室に言って欲しいとのことで2階の事務室に行き、応対に出た若い女性職員に同じように話をしてFAXの紙を渡すと、「少々お待ちください」と言って奥に消えた。
国立療養所「奄美和光園」
国立療養所「奄美和光園」

 廊下で待たされること15分、やっと出てきた男性職員は、「こんにちは」でもなく「こちらへどうぞ」でもなく無表情で怪訝そうに私をしばらく眺めまわし、FAXの件はその責任者が不在でわからないと言う。念のために原本まで郵送しておいてこの始末である。ならば無断で目的の場所へ行ってさっさと撮影して「ハイさよなら」でよかった。まじめにやると逆にこういう羽目になる。中央から遠く離れた国立の施設というのはこんな程度か。それにしても一村の名は今、かつて暮したここでもまったく役に立たない拒絶感におそわれた。
 私は「原本を送っているのに、何故許可か不許可か、返事をくれないのか」「公務員として職務怠慢ではないか」、「返事をくれないから直接飛行機代をかけてここまで来た」と半分ヤケ気味に食い下がった。廊下を通る職員がみなこちらを見ている。面倒くさそうに、その職員はまた奥に消えた。15分もかかってやっとまた出てきて、かぼそい声で「けっこうです」。しかしそのあとの一言がひどかった。「患者を撮らないように」。私はあきれて「患者には関係ない、田中一村に会いに来ただけだ」と返答し、長く待たせているタクシーに急ぎ足で戻った。
 「お待たせしてすみません」でもなく、「許可・不許可の返答もしないで申訳ありません」でもなく、「遠いところご苦労さまでした」でもなく、一村の話をするでもなく、彼の拒絶感に満ちた対応はいわゆる役所仕事を越えていた。外来客に不誠実。それが島のローカリズムの本性であろう。それを直観した。没後40余年、「和光園」ではもう一村は「忘れられた異邦人」なのだ。

 「和光園」の男性職員から受けた拒絶のまなざし・怪訝そうな疑心の目・国立療養所の対応の不誠実さ、一村は忘却の彼方の現実、これ皆今回の奄美行きで私が強く感じた島の素性。一村は、島の人から「気ちがい」と言われながら、実はこれとも闘っていたのではないか。
 「村社会」は、近代国家日本・先進国家ニッポンにいまだに残る民族的特性であるが、これが離島、しかも同じ南西諸島にあって沖縄からはずっと発展がおくれている奄美のあの時代。一村は、私が受けたあの男性職員のようなまなざしや目つきに最後までなじめなかったのではないか。誰かが言ったらしい「子供に石を投げられた」「変人奇人と思われていた」「気ちがい扱いされた」ことはウソではあるまい。「一村は奄美に殺された」までは言わないが、「一村が愛した奄美」などと言った美辞麗句は的はずれの虚飾ではないか。一村は虚飾と正反対の人だった。

国立療養所「奄美和光園」 旧職員宿舎跡
国立療養所「奄美和光園」 旧職員宿舎跡
国立療養所「奄美和光園」 旧職員宿舎跡
国立療養所「奄美和光園」 旧職員宿舎跡

 撮影したい旧職員宿舎跡は、施設の前を走る和光バイパスに沿った敷地内の一番奥。ちょうど初夏の雑草が生い茂り事実上草むらだった。ここで一村は、昭和33年12月~同36年12月の3年間、園長の大西基四夫氏や事務長の松原若安氏に厚遇され、小笠原医師とも親交を持って生活し、付近に咲く「ダチュラ」などをよく画いた。

8、大熊集落の「久野紬工場」跡

 奄美での一村を偲ぶのに欠かせないところが大熊集落にある。一村がかつて染色工として働いた「久野紬工場」である。ここで一村は昭和37年(推定)から42年夏までの予定で働きはじめ、さらに昭和45年の初頭から46年末の2年間、49年末から50年夏にかけての1年半、働いてお金が貯まると数年画業に専念し、また働いては画業を繰り返した。
 一村は画材とくに岩絵の具にはお金の糸目を付けず、東京上野や湯島の画材店から高級なものを買い求めていたという。
 自称「有数の熟練工」。日給450円(当時、日雇労務の240円=ニコヨンが社会問題になった、私が学生アルバイトをした東京の有名デパートでは日額400~500円)。通勤の服装は、当初着物を着ていたが、そのうち散歩の時と変わらないステテコにランニングかクレープシャツ、そして地下足袋。奄美の蒸し暑さを知る人ならわかるであろう。いつもスケッチブックやノートが入った風呂敷包みを持っていたという。

 大熊集落は港に面している。港からは洋上に浮かぶ「名瀬立神」を遠望することができる。
 「立神」は名瀬湾に立つ小さなピラミッド型の岩島。水平線の彼方の神の国「ニライカナイ」からやってくる神が碇泊する島。今でも「ノロ」(巫女)による豊漁祈願が行われるという。
 漁港があり魚屋が数軒あった。一村は「久野紬工場」の往復や昼休みに懇意の魚屋に足を運び、ブダイなどの珍しい熱帯魚やエビを観察し丹念にスケッチした。たまには魚を買い、スケッチが終ると調理してごちそうにしたという。
大熊の港からの「名瀬立神」
大熊の港からの「名瀬立神」

 今回、大熊集落の一隅に「久野紬工場」跡を確認した。この付近は大火事があったらしく、今は区画整理され、道路幅も広がり、工場跡には今風の住宅が数軒建っている。タクシーを停めた道脇の家から、古老のおばあさんがちょうど出てきて、声をかけて昔のことを聞いたところ、指さす先が「久野紬工場」だったと明確に教えてくれたのだ。

大熊、久野紬工場跡
大熊、久野紬工場跡
大熊、久野紬工場跡
大熊、久野紬工場跡

9、仕事通いの道の奄美焼店

 この大熊の紬工場に通う道すがら、島で一番お世話になったと思われる宮崎鐡太郎さん夫妻の陶器店兼住居があった。現在は徳洲会病院の駐車場になっている。陶器店は宮崎さんの奥さんの店で自作の奄美焼を売っていた。ご主人は近くの山羊島にあった「シーサイドホテル」の支配人だった。ご主人の勧めで一村がはじめて個展をやったところである。その「シーサイドホテル」も今はなく、代って「山羊島ホテル」が建っている。

奄美焼店(宮崎鉄太郎氏宅)跡 徳洲会病院駐車場
奄美焼店(宮崎鉄太郎氏宅)跡 徳洲会病院駐車場
山羊島ホテル
山羊島ホテル

 その宮崎さんは、おそらく一村との交流が一番あった人のようで、一村の信頼度が一番だったと思われる。しかしその宮崎さんにさえ、島の人の素性というものが、一村死後の後日談の漏れ聞きのなかで感じられる。
 ご主人が天草で亡くなられた数年後、奥様が「主人がずっと一村さんのお墓参りがしたいと言っていたので」と当山に来られ、一村のお墓にお参りされたことがある。一村の思い出の数々と有名になったことが一村の本懐か、といったことを話され帰られた。

10、島の北端「あやまる岬」

 名瀬(昔は名瀬市、今は奄美市名瀬)に別れを告げ、一路奄美空港近くの「あやまる岬」へ。一村はここにたびたびスケッチに来ていたという。その当時何ヵ所かトンネルをくりぬいた今のバイパスはなく、名瀬から空港のある笠利町へ出るには本茶峠を通る旧道しかなかった。一村は何時間もかけてトコトコとその道をたどり、一日がかりでスケッチを試みたのであろう。有名な自撮りの自画像風画像は、この「あやまる岬」で撮ったものだと言われている。

 「あやまる岬」にはアダンの群落もある。代表作の一つ「アダンの浜辺」も、ここに群れ咲くアダンの写生の結実ではないか。「熱砂の浜 アダンの写生 吾一人」の句はここだっただろう。
 この岬の手前に「奄美市歴史民俗資料館」があり、その出入り口の右手奥の芝生の広場に一村が詠んだ「砂白く 潮は青く 千鳥啼く」の句碑が建っている。以前は岬に下りていく道のわきにアダンの群生を背にしてあったらしい。誰もいない芝生の広場は遠く潮騒の音を聞くだけだった。

あやまる岬 一村写生地の石碑
あやまる岬 一村写生地の石碑
あやまる岬 一村の句碑
あやまる岬 一村の句碑

 奄美はきょうは薄曇りと晴れ。前日の雨がウソのようだった。数日後にはもう梅雨入りの時期だったが、暑くもなく汗もかかず快適だった。午後15:10発のJAL658便で奄美空港を発ち、ちょうど2時間の17:10、羽田に着いた。