蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

世事法談

 この「世事法談」は、当山の寺だより「まんだら通信」の「世事法談」の欄に書き続けてきたものです。毎年、新年・5月・9月(お参り月)に折にふれた話題に住職が保守の立場からコメントしたものです。

平成14年(2002)

■新年号より■

●敬礼三宝 謹賀新年
内は不景気 外はテロ
内憂外患で幕あけた21世紀
やっと明るいニュースです
皇太子ご一家に愛子様ご誕生
まことにめでたし、めでたし
これにあやかって、今年は良い年でありますように
年頭にあたり皆様のご多幸をお祈り申し上げます
●暗いニュースで終始した21世紀最初の去年、
やっと明るいニュースが日本中をかけ巡りました。皇太子殿下と同妃殿下の新宮「敬宮愛子(としのみやあいこ)」親王様。皇統の男宮がいないので早速「女帝」論議が起きました。女系天皇を認めていないのは世界で日本だけとか。21世紀は女性の時代、「母」の時代、「分母」の時代、そして「敬愛(けいあい)」の時代。
●毎月1日(ついたち、朔日)は祖霊参拝の日、
元旦はその年最初の先祖参り日。まずは菩提寺へお参り。七日正月は初詣の期間、神社仏閣にお参りし神仏とご縁を結んで家族と自分の吉運を祈ります。松飾りなどの縁起物は吉運を持ってきてくれる歳神様を迎える仕掛け。おせちやおもちの縁起物は無病長寿を祈る医食同源の知恵。これ、神仏が和して同ぜずの日本流。
●1月が終ればすぐ「福は内、鬼は外」の節分。
「福」は山や川や田や畑に恵みをもたらす暖かい春。「鬼」は凍てつく寒さで人を困らせる「冬」。待ち遠しかった春を迎える立春の前日、「福は内」と言って「春」を呼び、「鬼は外」と言って「冬」を追い払います。しかし当山の節分は「福は内、鬼も内」。赤・青・黒の善神「悪運断ち三鬼尊」をお祀りしていることから「鬼は外」とは言わない、全国でも珍しい追儺式。
 さてさて不景気という「鬼」を追い払うのは簡単なようで至難のわざ。今年の節分は「福は内、鬼も内」、「不景気」とも共存していく太っ腹でいきましょう。
●今の深刻な不景気と金融不安をまねいた
地価対策・総量規制。その通達でバブルをいっぺんに壊した元大蔵省銀行局長。汚染された肉骨粉の輸入をわかっていても止めなかった農水省・厚生労働省。田中真紀子外相をマスコミと組んでいじめぬき、公金使い込み疑惑から逃げる外務省の官僚。昔なら皆切腹ものなのに、官僚天国のこの国ではおとがめなし。去年の今頃は有明海のノリ漁民が泣いていました。官僚の無為無策無責任でいつも泣くのは、末端でまじめに働く業界の人たち。
●ニューヨークもアフガニスタンも、
アルカーイダ(オサマ・ビン・ラーディン)とアメリカの憎しみ合いで犠牲になった関係のない人たちが痛ましすぎます。アメリカはテロを壊滅すると言いますが、ヒロシマ・ナガサキ・ベトナムで自分たちがやった大量殺人をテロとは言わないのでしょうか。不毛熱砂の砂漠・遊牧の民・貧富の格差・コーラン・アッラー・聖地・異教徒・石油天然ガスの利権・ユダヤ資本。アラブの大義とアメリカ一人勝ちのグローバリズムとの衝突。何がわかってわが自衛隊は出かけて行ったのでしょう。
●先日深夜ドロボウに入られました。
さい銭箱もよくやられます。お金や食べものをもらいにくる失業者もふえています。不景気を実感します。失業して自殺した人の子たちが「痛みをともなう構造改革で自殺する人を出さないで」と小泉総理に訴えたそうです。気持ちはよくわかります。でも国にモノを言うまえに、まず父とか核家族のもろさや、助けてくれる縁人がいないことを問うのも知恵。昔は皆で支え合う縁がありました。破綻・破産・倒産・失業、不良債権・IT不況・産業空洞化・株安・国債格下げ・緊縮財政・デフレ、不景気は人の心や社会の秩序を乱します。不景気になると昔から忠臣蔵が流行り、あだ討ち・かたき討ちで人々は心を落ち着かせたものですが、この頃は「千と千尋の神隠し」で心を温めています。
●昔の家にはたいてい「縁側(えんがわ)」がありました。
そこに坐ってお茶を飲む親しい人を「縁人(ゆかりびと)」といいました。日本の住まいには縁を大切にする想いがありました。今の住宅はプライバシー優先で、縁人をもてなすスペースがほとんどありません。プライバシーが過ぎると人との縁は薄れるもの。今親や友達との縁がうすく生きることにさまよっている若者や中高生は、縁側のない集合住宅やマイホームの個室で育った人たちではありませんか。
 自分勝手・わがまま・自分の非を認めない・他人を責める・自分が変だと気づかない・社会性のないことをしてもはずかしく思わない、縁の大切さがわからない、そんな人が多すぎます。不況で悩む事業主の皆様、窮地に追い込まれた時たよりになるのは縁側の縁人。縁という信用や信頼は無形の財産で、へたな資産よりモノを言います。平気で縁側を捨ててきた個人主義・合理主義が、今日本の首をしめています。
●栃木の「秋まつり」が
去る11月6・7・8日の3日間行われ、秋晴れの暖かなお天気にも恵まれ、108年ぶりに大通りに9台の「山車」が勢ぞろいし、55万人の人出でにぎわいました。「山車」と「まつり」を後世に残してくれた江戸時代の商人の心意気と旦那衆の文化度の高さに感嘆するばかりです。反面現在の私たち、バブルに踊って株もゴルフ場会員権もただの紙くず。「山車」の一つも残せません。思い出すのは、バブル絶頂の頃、「山車」まつりの復活を口にしたところ笑われたこと。隔世の感です。
●昨年の6月14日、
宗派から住職として勤続30年の功労を認められ、「護持功労章」を授与されました。総本山智積院金堂で行われました授賞式におきまして、真言宗智山派管長・総本山智績院化主・宮坂宥勝大僧正から表彰状と記念品を拝受いたしました。
 この30年、当山への暖かいご理解とご信助によって、浅学非才な私を励まし支えてくださった檀信徒各位のご協力の賜物と心より深く感謝申し上げる次第です。
 今「心の時代」と言われるにもかかわらず、心を病み、精神の置きどころを見失った若者が街をさまよい、また生命があまりにも軽く扱われています。宗教者として心痛む毎日です。そうした社会の問題にもしっかり目を配りながら、今後とも檀信徒の皆様と共に当山の発展のために微力を尽す所存であります。何卒、変らぬご理解ご協力を賜りますようお願いいたします。

■春号より■

●日本の春 宴のあと
お彼岸に桜が咲きました
景気がなかなか回復しないので
冷え切った日本人の心を温めようと
桜が早めに咲いて気をきかせたのでしょう
バブルの花の宴 今は昔
●時間がゆっくりと流れ梅・桃が満開の早春の四国と、
まだ雪が残る高野山を歩きながら、「再生」というキーワードをみつけました。
 四国は善通寺(ぜつうじ)。香川県善通寺市、真言宗善通寺派の総本山。四国八十八ヶ所霊場第75番札所。弘法大師がお生まれになった聖地。そこで開創1200年記念事業の企画のお手伝いを。その善通寺でまっ暗な地下仏殿の胎内くぐり参拝。暗闇の通路の前半は死出の旅の道。やがてほんのりと灯りに照らされる仏様と出会い、後半の暗闇は母の産道。「生まれかわり」(再生)を体験しました。
 高野山は「転衣式(てんんしき)」。高野山大学の学長をされた旧知の学僧・松長有慶先生が、金剛峯寺の検校法印(けんぎょうほういん)という高位につかれる晴れの式に招かれて参列。高野山奥の院の御廟(弘法大師がいまも瞑想しているといわれる場所)の前で、「ありがたや 高野の山の岩蔭に 大師は今も おわしますなる」。大師はいつも「そこ」にいる、「よみがえる」(再生)大師を実感しました。
●四国八十八ヶ所霊場。
徳島県の霊山寺から出て香川県の大窪寺まで全長約1400㎞を歩く「歩き遍路」が増えています。健康ウォークの流行で歩きやすい靴が手に入るのと、若い世代の「自分さがし」や熟年夫婦の「人間再生」の旅。外人も多く見ます。
 人間誰でも悩み苦しみます。人生は不安と不満の連続です。そして最後が死の恐怖です。科学がどんなに発達しても不安や不満はなくなりません。心の問題です。そんな「私」がふっと救われる。それが四国八十八ヶ所遍路。四国は「死国(しこく)」。一度死んでまた生きる力をいただいて帰る「再生」の旅。案内のバス・タクシーあり、ぜひ四国でお遍路を。
●会社倒産で姿を消していた友人が
元気な顔であらわれ、懐かしいやらホットするやら。苦労話を聞いて、人間が大きくなったことに感動することしきり。彼曰く「早い時期に倒産を経験してよかった」「自分の非を認めなかった」「自分に甘かった」「死ぬことも考えた」「社員や家族を考えたら死ねなかった」「意外な人が私を見捨てなかった」「今、ひとにやさしくできる」。ジーンときました。わかったような坊さんの説教など空理空論。
●昔この国には「切腹」という過酷な責任のとり方がありました。
自分の過ちをわびるのに命をさし出しました。それが武士にとって最高の礼儀作法であり、「その時」を覚悟していつも生きることを子供の時から教えられました。それは、田や畑を耕すことなく、物を作ることなく、商うことなく、食べていける身分の高い特権階級のリスクだったのです。アメリカ人はこれを野蛮な「ハラキリ」と言い、「葉隠れ」という「即非」の精神文化を茶化しました。
 最近の霞ヶ関官僚の自堕落ぶりは一体何でしょう。国民資産に大きな損害を与えた上、疑惑や失態の繰り返しなのに責任をかくしたりのがれたり。まるで「ボク、やってないもん」としらをきる時の幼稚園児のよう。

■秋号より■

●「世界」と「母国」を知った夏
国旗を振り国歌を歌い熱狂する
からだをぶつけあい相手と闘う
何のために、「母国」のために
「世界」とは、そういうもの
サッカーのワールドカップは
不景気にあえぐ日本の経済に
4500億円の効果をもたらしました
●ワールドカップのサッカーを見ていて、
久しぶりに「母国」という言葉がよみがえりました。アメリカのマネをすることに慣れてニッポンを忘れてきた中年のオジン・オバンは「今さら、ニッポン?」「母国?」なのですが、日の丸の旗を振り、日の丸をホッペタやからだに書き、「君が代」を大合唱し、試合場の内外で熱狂する若者に圧倒され、つられて「オーオー、ニッポン」「オーレ-、オレオレオレ」なのです。
 4年後のワールドカップにイスラエルとパレスチナのチームを招くといいと思います。世界中が見るなかで両国の若者が手に武器を持たず、ボールを蹴ってサッカーを戦う。終わればノーサイド、互いに握手、ユニフォーム交換です。
●テレビ番組の「ガチンコ」ですっかり有名になった
ラーメンの達人・佐野さんの「支那そばや」(横浜ラーメン博物館店)に行ってきました。超人気で長蛇の列でした。がまんして待つこと45分。たかがラーメンされどラーメン。たしかに「おいしい!」です。これなら1000円払ってもいいと、こだわりの麺・超えたスープに納得。お客さんの財布のヒモをゆるめるのは、何かが超えているからでしょう。
●仏教のお経のなかで『般若心経』ほどよく知られている
お経はありません。そのせいか、有名なお坊さんや仏教著述家の書いた参考書や解説書も書店によく並んでいます。しかし、よくよく気をつけてみると、まちがっているものがほとんど。
 まちがいの大半は、「『般若心経』は、こだわらない心・かたよらない心を説いたお経、人生は執着やこだわりを棄てて生きなさい」といった人生教訓。冗談ではありません。人間は執着やこだわりなしでは生きられません。佐野さんのようなお客が並ぶおいしいラーメンも作れません。生きることに執着がなければ医療や病院は成り立ちません。
 『般若心経』は、その執着を前提に、こだわって、こだわって、こだわりの果てに、超えた高いレベルの技術やこだわりなど必要のない心境が身につくことを説いていて、そのレベルを「般若」(智慧)と言います。佐野さんはラーメンの道でそうなりました。プロ野球の川上哲治さんは「ボールが止まって見えた」と言いました。こだわりの果てで経験する「無の境地」です。
 仏教の菩薩は、「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提 薩婆賀(ギャーテー ギャーテー ボージー ソワカ)」という「真言」を唱えることでそれを体験しました。『般若心経』は、こだわりをもつなではなく、こだわりのなかでこだわりを突きぬけた超えたレベルがある、と。それには「掲諦 掲諦・・・」という「祈りの言葉(真言)」を何度でも唱えなさい、と。『般若心経』は「祈りの言葉(真言)」を説いた大乗のお経である、というのが正しい理解。サンスクリット語の原文(PDF 820KB)を読めばわかります。
●「お盆」がきます。お盆棚をきちんと飾りましょう。
 まず、普通はテーブル、あるいは2~3段の棚、精霊棚があればそれを用意します。その上に「真菰(まこも)」を敷きます。次に、仏壇からご本尊・お位牌を全部取り出し、よくふいて奥から並べます。「ろうそく立て」「線香立」「香炉」「花瓶」も出し、きれいにふいて並べます。
 ローソクは安全で長い時間もつもの、お線香はいい匂いのもの、を新しく買っておきましょう。花瓶には新鮮な花をいっぱい挿してください。
 そこに「お供物」をお供えします。まず「水の子」(※)です。さらに「野菜」「果物」「そうめん」「精進料理」のほか、その家ならではの「ごちそう」を並べます。ご先祖を迎えに行くキュウリの「馬」と、送って行くナスの「牛」もお忘れなく。
(※)「水の子」=どんぶり程度の鉢を二つ用意し、それぞれ蓮あるいはサトイモの葉をのせ、その上に「みそハギ」の小さな花束(元を半紙でくるむ)と、キュウリ・ナスをさいの目に切ったものを、それぞれに乗せます。