蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

世事法談

 この「世事法談」は、当山の寺だより「まんだら通信」の「世事法談」の欄に書き続けてきたものです。毎年、新年・5月・9月(お参り月)に折にふれた話題に住職が保守の立場からコメントしたものです。

平成19年(2007)

■新年号より■

●ダライ・ラマ法王 東京スピーチ
(2006年10月30日、新高輪プリンスホテル、当山住職:主催者代表幹事)
世界平和とは
戦争やテロがないばかりでなく
私たち一人ひとりが
自ら利己主義を戒め
相手を思いやる慈悲の心を持ち
暴力を捨てなければ
なしえないのです
ダライ・ラマ法王
●飾りたや 右肩あげて 門松を(弘隆坊)
 新年明けましておめでとうございます。
 元旦・二日と檀信徒の皆様多数の初詣お参りをいただき、新春恒例の大護摩供祈願法要が厳粛・盛大に厳修いたしました。年頭にあたり、皆様の心願成就のほか各家家門繁栄・子孫長久を心をこめてご祈願いたしました。
 新年大護摩供には、小さなお子さんや小中学生、高校大学生、若いご家族もお揃いでお参りしていただくようになり、お寺を身近に感じていただくと共に、改まった気持ち(神妙)になったり、人の集まる場所でのマナーやお参りの仕方をおぼえたり、新年の伝統行事を身をもって体験したり、家庭教育上でもよい傾向ではないかとうれしく思っております。
●年男年女(亥年生れ)
長所 竹を割ったような正直、純粋潔白、義理人情に厚い、研究熱心、愛情深い、親兄弟思い、友達よし。
短所 前後を考えない、何ごとも最後までできない、一人で万事解決しようとする、独りよがり、自分勝手。
運気 若年・中年に生活・仕事・人づきあいの苦労多く、夫婦の仲にも苦あるが、晩年はよし。
守り本尊 阿弥陀如来
ご真言 オン アミリタテイセイ カラ ウン
●昨年秋10月30日、
住職が事務局長をつとめる真言僧侶の団体が主催して、ダライ・ラマ法王の来日特別講演会を東京・高輪の新高輪プリンスホテルで行いました。
 法王は仏教国チベットの最高位宗教指導者(チベット仏教の伝統では、観音様の化身)であると共に政治的にも国家の最高指導者ですが、1950年に中国軍が東チベットに武力で侵入して以来苦難・苦渋の道を歩まれ、1959年の首都ラサ脱出とインドへの亡命(北インド・ダラムサラの地に臨時政府樹立)から約50年、依然として続く中国のチベット実効支配に対し武器を持たず非暴力非抵抗運動を展開し、祖国の自由と独立のため、ひいては世界平和と人権救済のためにがんばっておられます。
 当日は、住職がお願いをしたテーマ「慈悲ー仏教徒からの世界平和と人権救済のメッセージ」と題し参加者1000人を前に講話を行われましたが、講演中も講演後のレセプションでも終始笑顔をたやさず、気さくに誰とでも握手を交し合掌を繰り返しておられました。法王はその笑顔と合掌だけで接する人を感動させることができる血の通った観音(菩薩)様でした。
法王にお礼の記念品を贈る住職
●ダライ・ラマ法王特別講演に寄せて(当日参加者への資料、住職文)
 このたび、チベットの最高指導者ダライ・ラマ法王第14世、テンジン・ギャツォ様のご滞日中の貴重な時間をいただき、特別講演会を準備させていただきましたところ、日頃より法王の教えや動向に関心を寄せる皆様が全国各地からご参集いただき、かくも盛大に開催できますことを心より感謝申し上げます。
 ご案内のように法王様は仏教国チベットの宗教的最高権威であるとともに、チベット国家の政治的最高指導者でありますが、1950年10月の中国人民解放軍兵力2万余による東チベット侵入、同じく1951年の首都ラサ進駐、それによる経済的な混乱や国民の苦境からやむなく「チベットの平和解放に関する協定」の批准、1957年の東チベット・西チベットでの民衆蜂起、1958年の東チベットでの民衆決起、中国軍による砲撃・破壊と民衆の逮捕・拘禁、そして民衆の鎮圧と混乱、チベット文化の否定と破壊が続くなかでの1959年の法王のラサ脱出、北インド・ダラムサラに臨時(亡命)政府の樹立を経て、依然として中国による実効支配が続くチベットの自由と独立のために仏教の教えに基づいた非暴力・非抵抗主義をつらぬき、祖国の人々を励まし勇気づけながら来るべき日のために日々努めておられます。
 パレスチナとイスラエルの報復の連鎖とちがい、言わば国家間または民族間紛争の生々しい問題を、武力によらず非暴力・非抵抗と言論によるねばり強い運動で解決しようとする法王の忍耐強さに、世界の政治指導者は学ぶべきであります。法王の指導力によってチベット人はムダな血を流しておりません。

本日は、私共の要望で「慈悲ー仏教徒からの世界平和と人権救済のメッセージ」と題し講話をお願いしておりますが、現下の世界情勢とりわけ東アジアの現状に照らし、お話は興味深くまた有意義なものになると期待をいたしております。

 「慈悲」とは目の前で苦しむ人と「事を同じく(同事)」「行いを同じく(同行)」すること、つまり「悲しみを同じくし」「苦しみを同じくし」、「共に泣き」「共にそこにいる」ことであります。安っぽい同情ではありません。母がわが子の病気平癒のために自分を捨てて看病をするあの「自己犠牲」であります。これが、大乗仏教が創案した「空」の実践(利他行、菩薩行)であります。仏教はこの「慈悲」の標目によって、釈尊の思弁哲学から人類普遍の救済の宗教に変身を遂げました。
 大乗はまた、「慈悲」の実践者を用意しました。それが「観世音菩薩(観自在菩薩)」つまり「観音様」であります。「観音様」はホトケ(聖)でありながら娑婆世間(俗)の姿でいつでもおられ(三十三身、化身)、娑婆世間の苦しみにあえぐ私たちを救って止まない「菩薩」であります。この、ホトケ(聖)でありながらその姿は娑婆世間(俗)のものとし、いつも娑婆世間にありながらホトケとして衆生救済活動に従事する、という相反する二つの世界を同時に両立させる「菩薩」というコンセプトは、まさに西洋合理主義哲学にはない東洋の知恵であります。
 ダライ・ラマ法王こそチベット仏教でいう「観世音菩薩」の化身であります。「慈悲」の権化であり、非暴力・非抵抗主義はそれに基づいた行動規範であります。このお考えによって、何十万人のチベット国民の生命が守られてきたか、それこそ娑婆世間の救済活動であります。

 きょうの講演は、ダライ・ラマ法王に姿を変えた「観世音菩薩」が、東京の新高輪プリンスホテルを説法処として、私たち集会の大衆に有難い説法を行うという図でもあります。法王のお顔はいつもにこやかで慈愛に満ちています。チベットの人々が「生き仏(活仏)」として崇敬する気持がよくわかります。
 21世紀は人間劣化の時代のようでまことに多事多難の世紀です。20世紀をリードした西洋合理主義(安いか高いか、損か得か、儲かるか儲からないか、敵か味方か、強者か弱者か、支配者か被支配者か、資本家か労働者か、自然か人間か、他者か自己か、男か女か、の相対的な対立主義)を越える非対立主義・共存主義による東洋のグローバルスタンダードがいよいよイニシアティブをにぎる時代です。
 遠近を問わずご参加をいただきました皆様に、せめてもの記念の品として法王の自伝を用意させていただきました。こうした折に、法王様ついてご理解をより一層深めていただければ幸いに存じます。
●平成、すなわち「平らかに成る」はずだった日本ですが、
実際は世のなかが乱れ乱れて早や19年。日本には天然のエネルギー資源はありませんが、教育という資源の豊な国でした。高度な知識や、高い技術力、礼儀正しい公徳心や、仕事への責任感、そうしたソフトウェアを身に付けた人的資源で国を発展させてきましたが、肝心の教育やモラルが今迷走しています。
●学校も学校、家庭も家庭。
子供も子供なら大人も大人。子供が友だちをいじめて自殺に追いやり、親がわが子を虐待し、子が親を無残に殺し、いい大人が違反行為に懲りないで注意をされると逆切れし、年配者がスーパーで万引きし、見つかればウソと言い訳の開き直り。子供も大人も倫理・社会道徳がなくなっています。
●昔、母は低学歴でも肌のぬくもりと慈愛でわが子を育てました。
あれから60年、今は、高学歴の母が育児書を読み読み子を育てる時代。
昔、母は子に読み書きソロバンを教えました。
あれから60年、今は、学習塾のお金を働いて作るのが母の時代。

子育てがどこか他人行儀になっています。子育てに育児書も塾も本来要りません。男女平等とか男女均等雇用とかの社会では「父」と「母」が不在で、子供が犠牲になってはいないでしょうか。
●そのていたらくの象徴的なのがここのところの成人式。
昨年の成人の日の翌日、朝日新聞が夕刊のコラム「素粒子」で浦安市のディズニーランドで行われた成人式を「浦安の新成人。遊園地のネズミ踊り(ミッキーマウスのダンス)に甘ったれた顔をして喜んでいるようじゃ、この先思いやられる」とこきおろしたところ、浦安市の教育委員会から抗議を受けたとか。
●車がもらい事故で台無しになったため、
10年ぶりに車に関心を持って驚きました。軽自動車が新車で100万を越え、小型車もなんやかんや200万もするではありませんか。それに街行く車はみなニューモデルを競い合うがごとくオートローンの申込みも堅調なのだそうです。そう言えば、レストランや旅先のホテルで見る中高年女性グループの多さ、薄型テレビの売れ行き、携帯電話通話料のムダ、どこが不景気?どこが格差社会?

■春号より■

●篤(あつ)く三宝を敬へ
日本の国家体制の始まりの時(飛鳥時代)
聖徳太子は「十七條憲法」を制定し、「篤く三宝を敬へ」と言いました
国の秩序には、倫理道徳のほかに
「仏」(ほとけ)・「法」(仏の教え)・「僧」(仏の教えに帰依する人たち)を
敬う人心の品格が必要であると
憲法改正の論議で一番大事なのは
第9条の改正・改悪だけではなく
国家・国民の品格・品性の問題もではないでしょうか
●白州次郎(しらすじろう、明治35年~昭和60年)。
小田急線の鶴川駅(町田市)から徒歩で約10分の田園住宅地の奥に、あの白洲次郎と正子夫人が棲んだ「武相荘(ぶあいそう)」がひっそりとたたずんでいます。
 白洲次郎は、神戸市の中学校を卒業後イギリスに渡ってケンブリッジ大学に留学し、イギリス仕込みのロイヤルイングリッシュを得意としました。帰国後は、実業家で近衛文麿首相の総理秘書官だった牛場友彦等と近衛首相の若きブレーンとなり、駐イギリス特命全権大使の吉田茂と知遇を得ました。
 戦後は、吉田茂元総理の側近として「終戦連絡中央事務局」の参与となり、GHQの占領政策に対し流暢な英語で言うべきことを堂々と言う気骨と品格のある日本人でした。サンフランシスコ講和条約全権団の顧問も務め、吉田の講和受諾演説の英語の草案にもかかわりました。吉田茂の懇請で「終戦連絡中央事務局」参与となり、GHQを向うに回し堂々と論陣を張りました。
 とくに現憲法の起草に際しては、草案の段階で松本案(=日本案)を拒否しマッカーサー案を主張するGHQと激しく渡りあいました。天皇からの贈り物を持参した時それを粗末に扱ったマッカーサーを怒鳴りつけもしました。
 憲法論議を口にする人は、護憲も改憲も結構ですが、白洲次郎という稀代の国際人が何故GHQに抵抗したのか、現憲法がアメリカの狡猾な日本の骨抜き政策の一環だったことくらいは国民共有の常識としてわきまえておきたいものです。
 憲法を口にするなら一度ならず何度でも、聖徳太子を学び、白州次郎を学び、現憲法成立過程の歴史資料を精査してからにして欲しいもの。「日本国憲法は第9条の戦争放棄だけを規定しているわけではない」。大学時代に憲法学を教えてくれた老教授の口ぐせでした。白州次郎夫人の正子は、骨董品の目利きや「隠れ里」の著で有名です。
●この頃、
日本あるいは日本人の「品格」「品性」というものが気になっています。一国の総理大臣や政党の党首選びまで、選挙目当てのアイドル化しています。国民的な人気を背景に長期政権を担った小泉劇場の負の遺産なのでしょう。政治があまり国民の人気に迎合しますと、国民はつい低俗に走り愚民化します。「品格」「品性」どころではなくなります。
●神社仏閣の神仏の前や
美術館・博物館や病院・市役所や食事処・レストランで帽子をとらない中高年が目立ちます。「教室では脱帽」「家の中では帽子をとる」「食べる時は脱帽」と子供の頃からしつけられた世代のはずですが、どうしたことでしょう。
 旅行や外出の時に帽子をかぶる理由に、男も女も頭髪の老いのつくろいやおしゃれがあるとか、直射日光を避ける意味も当然あるでしょう。でも、です。どこでもかまわずかぶっていいのではなく、時と場所をわきまえていただくのが人生経験の豊かな中高年のマナーというもの。
 屋内での脱帽は永く日本人が守ってきた公衆道徳です。親が子に教えた社会規範です。この伝統的礼儀美風の模範を示すべき人生の先輩たちが、当然顔でそれを無視したり破ったりでは若い人に示しがつきません。
●サラリーマン川柳から
○脳年令 年金すでに もらえます
○このオレに あたたかいのは 便座だけ
○犬はいい 崖っぷちでも 助けられ
○アレどこだ? アレをコレする あのアレだ!
○「ありがとう」 そのひとことが 潤滑油
○忘れぬよう メモした紙を またさがす
○「ご飯ある?」「ツクレバアルケド」「ならいいです・・・」
○脳トレを やるなら先に 脂肪トレ
○妻タンゴ 息子はスノボ 俺メタボ
○たまったなぁ お金じゃなくて 体脂肪

■秋号より■

●美しい?国 ニッポン
昔、としよりを家族で世話をした
あれから60年、今、としよりを世話するのは介護施設のスタッフ
昔、日本男児は逆境に強かった
あれから60年、今、つまずくと自殺、引きこもり、「誰でもよかった」殺人
昔、日本女性はつつましかった
あれから60年、今、ブラウスの胸をはだけ、太ももを出し、肌もあらわの挑発系
昔、どの家にも一家団欒があった
あれから60年、今、食事バラバラ、親子バラバラ、夫婦も?バラバラ
●開創750年慶祝事業「平成の大復興」、浄財勧募
『開創七五〇年慶祝事業と浄財勧募基本計画のお知らせ』(付、「お願い額の見込み」)をお届けしましてから4ヶ月が経ちました。「お願い額の見込み」を参考に、それぞれの方法で心と浄財のご準備を始めていただいていることと存じます。いよいよ来春(5月下旬の予定)には具体的な浄財額のお願いを行い、合せてご納入も始めていただく予定でおります。時節柄まことに心苦しく恐縮ですが、何卒よろしくお願い申し上げます。
 江戸時代は、どこのお寺もそうですが、幕府保護のもと藩主が建設費・維持管理費・人件費などを負担し、住職の宗教活動や社会事業を財政面で支えていました。お寺は、すべて公費でまかなわれていたのです。
 明治になると事態が一変し、政府は外国列強に負けない近代国家建設のため、天皇を中心とした中央集権体制を組み、その一環として神道だけを国家宗教とし神仏の分離を命じました。お寺は国の保護からはずされ、私業もどきの道を歩むことになりました。お寺の建設や維持の財源は幕府や藩の公費から出なくなり、檀信徒の布施・喜捨に頼ることになりました。その頃当山は、不幸にして当地の大火によって全山が焼けてしまった直後で、100軒ちょっとの檀家では壮麗だった当山伽藍の復興を望むべくもなく、結局住職も住めない荒れ寺になってしまいました。
 昭和47年、今の住職が民家の建物を仮本堂としてきた不本意な当山の歴史に終止符を打ち、100年ぶりに伽藍の復興を発願。とりあえず本堂再建にとりかかり、檀信徒の皆様のご理解ご協力を得て復興の第一歩を記しました。さらに昭和64年、客間兼住居としても使用していた旧本堂の建物の老朽化にともない、再度檀信徒各位のご協力をえて客殿の建設を行いました。いずれの時も檀信徒の皆様は「先祖の眠るお寺は立派がいい」「自分もやがて本尊さまのもとに」との思いを強くされ、快くご協力してくださいました。心より感謝しております。今回も皆様の信心・良識を信じております。どうか倍旧のご信助の程よろしくお願いいたします。
●7月13日、8月13日、お迎え盆の日の午前11時、
ご本堂におきまして今年初盆を迎える精霊の特別供養会が行われました。本堂に初盆精霊の盆棚のほか、ご参考までに家庭にかざる盆棚の一例をしつらえ、皆様に見ていただきました。棚経でお家にお邪魔してみますと、それぞれ立派にかざっていただいて感心させられました。
●ここのところ、
お盆の檀家さん回り(棚経)をやめるお寺が増えてきました。檀家さん回りの代りにお寺の方で「お盆法要」を行い、檀徒の方にお参りをしてもらうのだそうです。新盆の家や役員さん宅だけ棚経を行うお寺も増えてきました。確かに梅雨の蒸し暑さや真夏の猛暑のなかの棚経は苦行ですが、「坊主から苦行をとったらただの人」で、86才まで棚経をしていた先々代住職(祖父)や、自転車や車にも乗らず歩きで棚経をやっていた大学教授の先代住職(父)のことを思えば、まだまだ修行が足りないと思うほかはなく、やめるにやめられません。
●8月は暑い日が続きました。
最高気温は観測史上初を記録しました。毎日最低1000㏄の水分補給を心がけ、心臓疾患によくない脱水症状を防いでいました。お陰様で猛暑にもへこたれることなく、お盆の前には墓地の雑草とりや落ち葉・枯花の片づけや除草剤の散布に精を出し、お盆の檀家さん回り(棚経)も無事にできました。
●暑さ寒さも彼岸までと言います。
今年も秋のお彼岸を過ぎ本格的な秋になりましたが、彼岸とは本来季節をいう言葉ではなく、「彼の岸」「向こう岸」「あの世」「先祖の世界」「ほとけの世界」のこと。ただし、この世では見ることができません。そこで先人たちは考えました。この世にいながらこの目で見ることのできる彼岸を。それがお寺です。
 自分たちの生命の最終的に行きつくところをお寺とし、そこを彼岸・浄土と考えたのです。菩提寺を立派にすることはイコール、皆様一人一人の生命の行きつき場所を立派な彼岸にしておくことにほかなりません。その意味でも、このたびの開創750年慶祝事業、ご理解ご協力の程よろしくお願いいたします。「きょう彼岸 菩提(ぼだい)の種を まく日かな」。
◆この春、
スーダラ節で有名だったクレージーキャッツの植木等さんが亡くなられました。夏には宮沢元総理、宮本共産党元議長、作詞家の阿久悠さん、モデルの山口小夜子さん。九月には瀬島龍三伊藤忠元会長も。戦後日本の歴史に名を刻む人たち、心よりご冥福を祈ります。
●この頃中高年の孤独死に立会うことがしばしば。
ひそやかなご葬儀に胸を痛めながら、考えさせられることがあります。とくに、家族もなく親戚もわからず施設や隣組の人のお世話で見送られる場合。たいていは無一文、他人の善意に頼る最期です。先祖代々のお墓も無縁となり、その供養や管理もお寺に負担がかかります。孤独の人生を選ぶのは自由ですが自分の最期の後始末くらいは元気なうちに心がけておいて欲しいもの。昔の人は、貧していても、さすがに自分とご先祖様の後始末を放置はしませんでした。
◆「原爆はしょうがない」では、
ヒロシマ・ナガサキの被爆者や犠牲になった人たちはやりきれませんが、史実をたどると原爆投下には当時の微妙な国際情勢がからんでいます。大東亜戦争の末期、ソ連(スターリン)はアメリカ(ルーズベルト)にそそのかされ、日本侵攻(満州・北方領土)を準備していました。しかし、アメリカの次の大統領(トルーマン)は日本の共産化を嫌い、ソ連の日本侵攻を防ぐためにヒロシマ・ナガサキに原爆を落とし、日本の無条件降伏を早めました。それにあわてたソ連は、相互不可侵条約を一方的に破り満州に侵攻しましたが、日本本土には手が出せませんでした。そこでソ連は日本の戦後処理について北海道の留萌(るもい)と釧路を結ぶ線の北側を要求しました。冬、凍らない港が欲しかったのです。それを強硬に止めたのは中国の蒋介石総統(後の台湾総統)でした。日本は蒋介石総統のお蔭で南北分断の悲劇を経験せずに済んだのです。
●8月のお盆を無事終えて休みをもらい、
気温27℃の木曽路に行ってきました。奈良井宿・木曽福島・妻籠宿をゆっくりと散策。なかでも木曽福島では木曽義仲の眠る興禅寺に参拝し境内のたたずまいを学び、江戸時代からの古民家を再利用したイタリアンの店「ビストロ松嶋亭」で信州りんごと野沢菜を和えた冷たいパスタを賞味しました。味は抜群、お値段はリーズナブル。思わず「栃木にもこんなお店があるといいなぁ」。地方の「再生」は今、地産地消のコラボレーションから。