蔵の街とちぎ 大毘盧遮那殿 満福寺(満福密寺)

世事法談

 この「世事法談」は、当山の寺だより「まんだら通信」の「世事法談」の欄に書き続けてきたものです。毎年、新年・5月・9月(お参り月)に折にふれた話題に住職が保守の立場からコメントしたものです。

平成27年(2015)

■新年号より■

●敬礼三宝 謹賀新年
昔、弘法大師は、年の始めに宮中の内道場「真言院」で
天皇の玉体安穏と天下泰平・万民豊楽を祈りました
今でも毎年1月8日~14日、京都の東寺(とうじ)に
真言宗各派の管長様や長老僧が集り
潅頂院(かんじょういん)の道場で
天皇陛下の御衣(ぎょい)を奉安すること7日間
一日3回、真言を唱えてお加持し、
天皇の身体健全と国の平安や国民の多幸を祈ります
「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」です
●門松を 右肩上がりに また飾り(弘隆坊)
 新年明けましておめでとうございます。
 平成27年、西暦2015年、未歳が明けました。
 今年の恵方(えほう、歳神様がいる方角)は西です。
●年男・年女(未歳生れ)
長所 気品よく、あわれみ深く、従順。ひとに好かれ、一芸一能に秀でる人が多い。
短所 内気、多情。執着心が強く、グチが多い。他人の言葉に迷いやすい。
運気 ややもすると弱気になるが、生活には不自由せず、中年より晩年よし。
守り本尊 大日如来(だいにちにょらい)
ご真言 オン バザラダト バン
●初春の俳句五首
初夢に 古郷(ふるさと)を見て 涙かな一茶
めでたさや 飾りのミカン 盗まれて子規
先づ女房の 顔を見て年 改まる虚子
ふるさとの 年新たなる 墓所の雪蛇笏
ひとり煮て ひとり食べる お雑煮山頭火
●新年早々に受けた新しい御札は、
札袋から出して仏壇や神棚などに立てて置き、毎朝または毎月一日拝みます。家内安全・身体健全・商売繁昌などの願いごとを一心に具体的に祈願します。
古い御札は、御札を受けたお寺や神社に気持ちを込めて納めます。当山の「古札受け」に時々他のお寺や神社の御札が混じっておりますが、御札納めのマナーとしては感心いたしません。
●東日本大震災の犠牲者を弔う
供養碑を本堂前の参道わきに建立し、秋のお彼岸の「施餓鬼会」の朝、開眼法要を行いました。大震災では亡くなられた方が約1万5千人、行方不明の方がまだ数千人もおられます。表側は、光明真言の梵字を彫った「光明真言マンダラ」。裏側は、「東日本大震災犠牲者供養碑」の銘。
●群馬県の山奥から出た
「力石」(パワーストーン)を境内に設置しました。これに手をふれると「開運」「良運」のご利益があるということです。昔からこのような大きな石には神が天から降りてきて宿るとされ(「磐座(いわくら)」)、神の不思議な力(威神力)が宿っているといわれます。手で触れてパワーをいただいてみてください。
●昨秋、映画俳優の高倉健さんが亡くなりました。
元気なうちに文化勲章を受章していてよかったです。口数少なく、不器用な生き方しかできず、しかし義理人情には篤く、男らしくスジを通し、弱きを助け、強きをくじく、そして心やさしい、古き良きニッポン男児を演じると絶妙でした。「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」「鉄道員」(ぽっぽや)「あなたへ」など、何度も見たい映画です。
●NHKテレビ、日曜の夜8時からの大河ドラマ。
今年は「花燃ゆ」。主人公は幕末の偉人吉田松陰(よしだしょういん)の妹・文(ふみ)。舞台は幕末から明治へと時代が大きく動きだした長州(山口県)の萩(はぎ)。
 吉田松陰と言えば、萩の城下で私塾「松下村塾」を開き、桂小五郎(木戸孝允)・久坂玄瑞・高杉晋作・伊藤博文・山縣有朋・吉田稔麿・入江九一・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義ら維新の志士を育て、歴史に名を残した兵法家・思想家・教育者。アメリカの黒船に腰をぬかし開国に傾く幕府に反対し尊王倒幕の立場をとったため、「安政の大獄」により捕えられ江戸で処刑されました。享年29才。辞世の句に有名な二首があります。

弟子たちに宛てて
身はたとひ 武蔵(=江戸)の野辺に 朽(く)ちぬとも 留(とど)め置かまし 大和魂(やまとだましい)

萩の家族へ
親思ふ 心にまさる 親心 けふ(今日)のおとずれ 何と聞くらん
●昨年夏、朝日新聞が従軍慰安婦の問題でやっと非を認めました。
昭和58年以降、朝日新聞は吉田清治(文筆家)という人の証言をもとに、済州島などで若い韓国女性が日本軍によって強制連行されたと16回にわたり記事にしましたが、吉田証言がウソだったのです。朝日は30年以上そのウソを認めず、「河野談話」や韓国の反日感情・歴史認識に少なからず影響を与えました。報道機関が意図的に情報を作り世論をあやつるのは世論操作・大衆誘導です。
●山車巡行の「秋まつり」で「蔵の街とちぎ」が
37万人の人出で賑わった昨年秋。当山にも蔵の街観光の人が大勢みえましたが、来訪者には二つの特徴がありました。
 一つは、ご朱印帳持参で「ご朱印をお願いします」と玄関に来られ、大師堂に参拝しお守りなどを求め、寺の由緒や田中一村のことを聞く若い世代の歴女やカップルやグループ。一つは、お堂の前で帽子も取らず、手を合わせるでもなく、お堂に入ってお参りをするでもなく、ただ境内を通り抜けていくだけの中高年リュック族。「YOUは何しにここへ?」というテレビ番組の名前が頭に浮かびます。

■春号より■

●神仏習合の高野山開創
若き日、山(ヤマ)の行者だった弘法大師空海は
紀伊山地の古代宗教のメッカ、吉野・熊野で修行し
幽玄の山「高野」を発見しました
その「高野(こうや)」の山麓に
丹生都比売(ニウツヒメ)を祀る丹生都比売神社がありました
その神が言うに
「菩薩(ぼさつ=空海)を歓迎する」と
古くから神の領地だった「高野」に仏教の僧の空海が入ることを
土地の神が歓迎をしたのです
日本の神仏習合はここから始まりました
●高野山を弘法大師が開創して1200年。
4月2日から5月21日まで、記念の大法会が行われました。大法会期間中、総本山の金剛峯寺(こんごうぶじ)はじめ、172年ぶりに再建された「中門(ちゅうもん)」、ご本尊薬師如来を祀る「金堂(こんどう)」、国宝・重要文化財を集めた宝物館、そして有名な「根本大塔(こんぽんだいとう)」、弘法大師が今もおわしますなる奥ノ院の「御廟(ごびょう)」等々、連日参拝客で賑わいました。住職も、連休明けの5月9日お参りしてきました。
 高野山は真言宗の祖山ですが、昔から宗派を越えて信仰されてきました。「奥ノ院」の広大な墓地には、徳川家康・豊臣秀吉・織田信長はじめ多くの戦国武将の大きな墓石が立ち並び、浄土宗の開祖法然上人・浄土真宗の開祖親鸞上人のお墓もあります。日蓮宗の開祖日蓮上人もこの山に居たことがあります。
●大同元年(806)夏、
弘法大師は、唐の長安での留学を切り上げて帰国する際、浙江省の寧波(ニンポー)の浜辺で海上安全を願い、持っていた「三鈷杵」(さんこしょ、仏器)を海に投げ入れたところ、それが海を越えて遠く高野山に飛来したという伝説に基づき、落ちていたと言われる場所に今「三鈷の松」があります。高野山の開創1200年を記念して、当山にも「三鈷の松」の若木を1本植えました。珍しい三つ葉の松で、「吉運」を呼ぶと言われています。
●送り盆の7月16日と8月16日、
盆棚を片づける際、まこも、造花の蓮の花、おがら、薄いプラスチックの蓮の葉、馬・牛に見たてたキュウリ・ナスなど、お供え物のあと始末は町内の役員さんが「精霊船」を出して集めてくれる場合はそちらにお願いし、町内で集めていただけない場合は一般ゴミ(燃えるゴミ)として各自処分してください。お寺ではお預りしておりません。
 時々どうすればいいかお問い合わせがありますが、お寺でお預りするものではありませんし、お墓に置いたり墓地の「ゴミかご」に捨てるものでもありませんのでご留意の程お願いします。
●お墓を守る家族・親族がおられず、
寂しく放置されたままの「無縁墓」に困っております。何よりそのお墓に眠るご先祖様が気の毒で、墓掃除のたび心が痛みます。
 守ることができなくなったお墓は、時機を選んで解体・整地し、遺骨は「無縁遺骨収納墓」(当山墓地内)の方に移し、「墓じまい」をしていただくことになっております。
現在の状況から判断して、いずれは「墓じまい」をしなければならない方は、「永代供養」のほかいろいろな最終処理の方法がありますので、一度住職にご相談ください。

■秋号より■

●戦後70年
6月23日、沖縄県糸満市摩文仁丘「平和祈念公園」での沖縄戦全戦没者追悼式。
8月6日、広島市「平和公園」での原爆死没者慰霊平和祈念式典。
8月9日、長崎市「平和公園」での原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。
8月15日、東京都「日本武道館」での全国戦没者追悼式。
玉音放送から早や70年、この夏も全国各地で戦没者を追悼し不戦平和を祈りました。日本人の不戦の誓い、平和を希求する心は健全です。
●戦後70年。昭和天皇の玉音放送(全文、現代語)
 私は、世界の大勢とわが国の現状とに鑑み、非常の措置によって事態を収拾しようと深く希い、ここに忠実で善良な国民の皆さんに(以下のことを)告げます。私は、わが国政府に、米英中ソの4ヵ国に対してその共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨通告させました。
 そもそも、わが国民の安寧を計り万国が共栄して楽しみを共にすることは、天皇家の始祖や歴代天皇の遺訓であり、私はそれを常に心にとめてきました。先に、米英二ヵ国に宣戦した理由も、本当にわが国の自存と東アジアの安定とを心から願ったからであり、海外に出て他国の主権を排斥し領土を侵略するようなことは、もとより私の志すところではありません。
 然るに、交戦状態はすでに4年を過ぎ、私の陸海軍の将兵の勇敢な戦い、私の全ての官僚役人の精勤と励行、私の一億国民の奉仕、それぞれが最善を尽くしてきたにもかかわらず、戦局はかならずしも好転せず、世界の大勢もまたわが国にとり有利ではありません。そればかりか、敵国は新たに残虐な(原子)爆弾を使用し、何度も罪なき国民を殺傷しその惨害の及ぶ範囲はまことに計り知れないところまでに至りました。
 この上なお交戦を継続させれば、ついにはわが日本民族の滅亡をも招くばかりでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いありません。そのようになれば、私はどのようにして億兆の国民と子孫を守り、天皇家の始祖や歴代天皇の神霊に謝まればよいでしょうか。以上これが、私がわが国政府に、共同宣言(ポツダム宣言)に応じさせるに至った理由であります。

 私は、わが国と共に終始東アジアの解放に協力してくれた諸同盟国に対し遺憾の意を表明せざるを得ず、(また)わが国の国民の中で戦陣で戦死した人、職場で殉職した人、非業の死を遂げた人、及びその遺族に思いを致すと、私の五臓六腑は引き裂かれんばかりであります。かつ、戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失った人たちの治療や生活などの保証に至っては、私が深く心を痛めるところであります。
 思うに、今後わが国が受けるであろう苦難はもとより尋常ではありません。国民の皆さんの真情も私はよく知っております。しかし私は、時勢の趣くところの、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、未来の世のために恒久平和を開きたいと思います。

 私はここに、国家を護持し、忠実で善良な国民の皆さんの偽りのない真心を信頼し、常に国民の皆さんと共にあり、もし、事態に逆らって激情の趣くまま事件を頻発させ、あるいは同胞・同志で排斥し合い、互いに時局を悪化させ、そのために天下の大道を踏み誤り、世界の信義を失うような事態は、私の最も戒めるところであります。
 そのことを、国をあげて、各家庭でも子孫に語り伝え、神国日本の不滅を信じ、任務は重く道は遠いことを思い、持てる力のすべてを未来への建設に傾け、道義を篤くして志操を堅固に保ち、誓って国家の精髄と美風を発揮し、世界の進む道におくれを取らぬよう心がけてもらいたいのであります。国民の皆さん、以上のことを私の意志として心に留め、従ってもらいたいのであります。
●戦後70年に当り、改めて昭和天皇の玉音放送の原文を読んでみました。
昭和天皇は、そもそも戦争自体に反対でした。アメリカをはじめとする西欧列強により戦車・戦艦・軍用機などに必要な石油燃料の輸入を止められ、その補給に困った軍部の強硬突破論に押し切られたのです。しかし「ミッドウェーの海戦」以後、制空権・制海権をアメリカに奪われた戦況ははかばかしくなく、広島・長崎・沖縄・東京などの惨状を知るに至り、数百万の命を犠牲にしてしまったことに強烈な自責の念をおぼえられたにちがいありません。昭和天皇は、戦中も終戦も戦後も、日本の最高責任者として国家・国民を守ることに誰よりも心を配り命がけであったことが、玉音放送から読み取れます。
●戦後70年、「ジャップ(日本人)」憎しの東京裁判。
この裁判は、戦争に勝った連合国側が負けた日本を裁くという、国際法上に例をみない不法・不当な裁判でした。裁判長のウェッブは極端な反日オーストラリア人で、被告人に有利な弁論を一切無視しました。主席検事だったキーナンはギャング退治と高圧的で有名なアメリカ人の鬼検事でした。もとから法理に従う法廷ではなく、白人が黄色人種に報復するための感情的な法廷でした。A級戦犯などの理由となった「平和に対する罪」や「人道に対する罪」は、もっともらしく日本を裁くためにこの裁判のために用意されたもの。裁判中、終始一貫日本の立場を擁護したインドのパール判事は、戦後たびたび日本にきて東京裁判の不当性を説いて回りました。
●戦後70年、A級戦犯と靖国合祀。
A級戦犯とは、東京裁判で「平和に対する罪」で死刑(=絞首刑)・終身刑・有期禁固刑の判決を受けた25人と、判決前病死・訴追免除3人の28人。
 名を挙げれば、
【死刑(絞首刑)】
01東條英機軍人、総理大臣、アメリカに対する罪
02板垣征四郎軍人、陸軍大臣、満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀総長、中国侵略の罪
03木村兵太郎軍人、陸軍次官、ビルマ方面軍司令官、イギリスに対する罪
04土肥原賢二軍人、第12方面軍司令官、奉天特務機関長、中国侵略の罪
05武藤 章軍人、第14方面(フィリピン)軍参謀長、捕虜虐待の罪
06松井岩根軍人、中シナ方面軍司令官 南京攻略の時、南京事件の罪
07広田弘毅文民、総理大臣、近衛内閣の外務大臣として南京事件を止めなかった罪
【終身刑】
01荒木貞夫軍人、陸軍大臣、文部大臣
02梅津美治郎軍人、関東軍総司令官、陸軍参謀総長
03大島 浩軍人、外交武官、ドイツ大使、ヒトラーに心酔
04岡 敬純軍人、海軍次官、鎮海警備府司令長官
05賀屋興宣官僚、国会議員、大蔵大臣、法務大臣
06木戸幸一官僚、内大臣、天皇の側近、『木戸日記』
07小磯國昭軍人、拓務大臣、朝鮮総督、総理大臣
08佐藤賢了軍人、第37師団(中国の警備・治安長)
09嶋田繁太郎軍人、海軍大臣、軍令部総長
10白鳥敏夫外交官、国会議員、勝手な外交の振舞いで昭和天皇の怒りを買う
11鈴木貞一軍人、東條英機側近、企画院総裁、国会議員
12南 次郎軍人、陸軍大臣、関東軍司令官・満州国大使、朝鮮総督、国会議員
13橋本欣五郎軍人、右翼活動家、たびたびクーデターを試みる、国会議員
14畑 俊六軍人、陸軍大臣、関東軍司令官、第2総軍(西日本防衛)司令官
15平沼騏一郎官僚、総理大臣、国会議員、枢密院議長、内大臣
16星野直樹官僚、満州国国務院長官、内閣書記官長、
【有期禁固刑】
01重光 葵外交官、外務大臣、大東亜大臣、国会議員
02東郷茂徳外交官、外務大臣、拓務大臣、大東亜大臣、国会議員
【判決前病死】
01永野修身軍人、海軍大臣、連合艦隊司令長官、第一艦隊司令長官、軍令部総長
02松岡洋右外交官、国会議員、外務大臣、日独伊三国同盟、国際連盟脱退、
その独断先行を昭和天皇は嫌悪していた
【訴追免除】
01大川周明民間人、超国家主義右翼思想家、梅毒による精神障害で訴追免除
 彼らは昭和28年、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」により釈放されました。この赦免によって戦争犯罪人ではなく、「戦死者」(公務死)または「被拘禁者」となり、「戦死者」の遺族には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が適用されました。
 こうした旧軍人の復権の流れのなかで、昭和53年(福田赳夫内閣)、松平永芳宮司によって亡くなったA級戦犯が「英霊」として靖国に合祀されました。国のために殉じた「英霊」を御神体とする靖国神社としては当然の神事です。翌年にはマスコミの知るところとなりましたが、その当時中国・韓国ほか国際社会は何も言いませんでした。
 この合祀に関して、昭和天皇がご不快で靖国に参拝されなくなったという話が定着していますが、昭和天皇がご不快だったのは、陛下のご裁断や平和を望むお考えを省みず、勝手に外交をもてあそび、日本を戦争の方に導いた松岡洋右と白鳥敏夫が軍人でもないのに靖国に祀られたことに対してのようです。
●戦後70年、憲法9条
今の日本国憲法は、日本が二度と西欧諸国と戦えなくするための連合国の策略でした。連合国司令部による最初の草案は、日本の自衛権(自分の国を守る防衛戦力)も認めていませんでした。戦力(=手足)をもぎとられ、丸裸の国にされたのです。それが今の憲法第9条の「戦争放棄」「戦力不保持」です。
 この9条のお蔭で戦後70年日本は平和だったと言う人がいますが、そうでしょうか。日本が戦後70年平和だったのは、まず第1に世界一の軍事大国アメリカと敵対しなかったこと、第2に中国がまだ強い軍事力を持っていなかったこと、第3に旧ソ連(ロシア)とも対立しなかったことで、政治・外交のお蔭です。
 もっと言えば、日本人は戦争はもうこりごりなのです。戦争の悲惨さや負けることの惨めさを痛く知っています。だから絶対に戦争はしない、その国民的なコンセンサスが平和を守ってきたのです。戦争に負けて物心両面で深く傷ついたからです。戦争に懲りたからです。
 それが本当のところでしょう。国民一人一人が心から平和を希求し自覚的に自己責任で平和を守ってきた、9条のお蔭というのは妄想です。9条を知らなくても、左系じゃなくても、戦後の私たち日本人は誰も自覚的に反戦・平和でした。
●戦後70年、保守政権二つの道
戦後、吉田総理が選んだのは、アメリカの強大な軍事力の傘(=核の傘)の下での平和ボケと経済優先・物質文明の豊かな日本。岸総理が選んだのは、アメリカとは仲良くしながらも日本は日本、自分の国は自分で守る自立自存の日本。
 岸総理の孫である安倍総理は後者で、おじいさんと同じく自分の国は自分で守る自立自存路線。マッカーサー率いる連合国司令部が作った今の憲法を、日本の現状にふさわしい独自のものに改めること(憲法改正)と、憲法違反の疑いがある自衛隊を改正憲法で正式に認め、同時に(専守防衛の)自衛力強化を計るのが目指すところです。
 国会で審議中の安保法制はその一環。ハッキリ言えば中国の軍事力増強への対抗措置です。だから、「今」なのです。そんなこと百も承知で反対する野党の国会論議、シラケ鳥の鳴き声が聞こえてきます。